「SWEET CITRUS」
ちょっと小説なんて書いてみました。
31回で終わります。
第2回日本ラブストーリー大賞「審査選考委員を悩ませたもうあと一歩の作品」に選ばれました。「第20回小説すばる新人賞」一次審査通過しました。
31回で終わります。
第2回日本ラブストーリー大賞「審査選考委員を悩ませたもうあと一歩の作品」に選ばれました。「第20回小説すばる新人賞」一次審査通過しました。
2008.09.02 Tuesday
11
「で、なに?」
好きな男からお願い事をされて、ドギマギしながらそう聞いたのに、
「夏目の誕生日、来月じゃん?」
と、恋人の話をされてしまった。
「あ…あぁ、そうなんだ」
「そうだよー」
忘れてたの?と、自分のことのように怒りながら市川が唇を尖らして文句を言ってくる。
「忘れてないよーっていうか、夏目ちゃんの誕生日が来月ってこと、今知ったよ」
「あ、え?そうなの?」
「そうだよー。夏目ちゃんと知り合って、初めてのお誕生日だよ」
「そっか、そっか。そりゃ怒って…悪いことしちゃったな」
イチさん、自分の早合点に照れてる。うぅ、そんなとこも好き。だから、協力してあげたくなる。
「分かった。ご馳走をたくさん作るよ。沙耶ちゃんにも手伝ってもらって…」
「そう?んじゃ、しゃぶしゃぶにしようよ。いいお肉買ってさ…って、あ。あの、それもそうなんだけど。それもお願いしたいんだけど」
違うの違うの、と、慌てたように市川が言葉を挟んでくる。
「え?なに?」
「夏目に渡す、誕生日プレゼントなんだけど…」
「うん?」
「ナリコ、夏目の絵を描いてくんない?」
「へぇ?」
思ってもなかった申し出に、思わず声が裏返る。
「絵?」
「そう絵をねー、お願いしたいんだよ」
自分のこのアイディアに市川は、自慢げに目を輝かせている。
「夏目ってさぁ、ご存知の通り、超おしゃれさんじゃん?」
まぁ、それはナリコも認める所だ。ショップ店員って、みんなあんなにもおしゃれなのかな。
「だから買ってきた物って、なんだか自信がない」
自信がないことには、自信を持って言ってくる。
「はぁ…」
だからさ、と市川。
「オンリーワンなものをあげたいんだよねー」
と。
なるほど。
「ナリコ、今の仕事の進行状況って、どんな感じ?」
「今やってるのは単発の仕事で…後は…いつもの連載が…一本…かな」
スケジュール帳をペラペラとめくりながらそう答える。
「描ける…感じ?」
「まぁ、描けない感じ…ではないよ。あとは、売り込みに行けるように新しい絵を描きたいなー、とは思ってるけど。またTシャツデザインのプレゼンがあるかもだから、その時用に絵を描き溜めておきたいし…でも別に、これは急ぎじゃないよ」
それを聞いて安心したような顔で市川がにこりとする。
「そっかぁー。描けない感じ、ではないかー」
だけどナリコにはひとつ疑問点があった。
「でもそれって」
「うん」
「私からのプレゼントになっちゃわない?」
「あ、あー…。やっぱそう思う?」
「思う」
やっぱりなー、などと言いながら、結局そう言われてしまって眉間にしわを寄せる。
どうしよう。うーん。と悩む市川を見ていてナリコはあるアイディアを思いついた。
「その絵、イチさんが描いてあげたら?」
「えぇ?俺が?」
思いがけないナリコの案に、市川は目をまるくして驚く。
「俺、絵、そんなにうまくないよー」
「でもヘタでもないよ」
と、ナリコ。
以前、市川と夏目の三人で揃って晩ご飯を食べた後に、うろ覚えでマンガキャラクターを描く、という遊びをしたことがある。
その時たまたま見ていた、バラエティ番組でそんなことをやっていて、
「おもしろそう、俺も描く」
と、言った夏目の言葉を受け、ナリコと市川もやってみることにしたのだ。
そこら辺に転がっていたメモとペンで描いてみる。
ルールは簡単。自分が描けそうなキャラクターを言って自らが描き、同時にほかのふたりにも描かせる、というものだ。
ナリコは一応絵のプロだから、案外どんなキャラクターでも描けた。でもやはり見てきたアニメが男の子とは違うから、ヒーローものなどは市川に完敗したのだ。
「イチさん、結構ウマいじゃん」
「いやー、でもやっぱナリコには勝てないでしょ」
「…」
お互いを褒め合うふたりを見ながら夏目は黙り込んでいた。
「ちょっと、夏目のも見せてよ」
そう言って身を寄せてくる市川を夏目が拒む。
「やだよ」
「なんでよ?夏目ちゃんがやろうって言い出したんでしょ?」
不思議そうにナリコが尋ねる。
「そうだけど…。でもやなのっ」
「いーじゃん見せてよ、夏目だけ見せないなんてズルいよ」
「うっさいなー。ちょ、市川さん。こっち来んなよっ」
「もぅー。夏目のが見たいんだってば」
「なんだよ?なにを見ようとしてんの。市川さん、なに欲情してんの?エロいな」
「な、なに言ってんんだよっ。バカ、違うよ。絵だってばっ」
「分かってるよ。でも見なくていいよ。見なくていいっつうの」
「見せろっつうのっ」
「やだっつうのっ。やめろっつうの」
「やめないっつうのっ」
そういったやり取りがしばらく続いたあと、一瞬の隙をついて市川が夏目の絵を取り上げた。
「あっ、市川っ。バカッ」
絵を奪われてすぐに飛びついたがもう遅かった。夏目より市川の方が背が高いから手を高く挙げられたらもう届かない。
「もー、バカ…バカ市川…」
市川に呪詛の言葉を呟きながらも諦めて夏目が席に戻る。
「どれどれ」
夏目の言葉など気にもせず腰をおろした市川は、取り上げた絵を見るとその紙を握りしめたまま肩を震わせ黙り込んだ。
「?」
ナリコも、何かに耐えているらしい市川の背後からその手元をのぞき込む。
そして、市川同様やっぱり黙り込んでしまった。
「…」
「…」
驚いた目でお互いの顔を見合わせたふたりは次の瞬間、
「うわははははははっ」
と、爆笑してしまう。
「なにこれ夏目?お前コレ、相当ヒドいよ」
ナリコを見ると、もう可笑しすぎて声にならず、身体を二つに折ったまま自分の腹筋をぐっと押さえてただただ肩を震わせていた。
自分からやると言いだしたくせに、夏目が描いたアニメヒーロー達があんまりにもおかしな感じに描かれていたから驚いてしまったのだ。
「仮面ライダーの顔、目までモロに見えてて、既に『仮面』の要素がないんですけどっ?」
「ドラえもんに耳があるっ」
「ピカチューがカバにしか見えないよっ」
「セーラームーンがショートカットなのは、なんでっ?」
「コロスケにちょんまげが二本あるっ」
などなど、市川とナリコは気が済むまで涙を流して笑った。
ぜいぜい喘いで、やっと息ができるようになったナリコが、
「なにこれ、夏目ちゃんっ。もうある意味天才の域越えてるよ」
と、夏目を褒める。
「夏目、いや、夏目画伯。もっと描いて下さいよ」
「お願い、夏目ちゃん。もっと見せて」
ふたりは涙目で夏目にねだった。
最初は「なんだよー」などと言いつつも、大ウケしたことに少し気を良くしていた夏目だったが、あんまりにもふたりがしつこくしつこく笑うものだから最終的には、
「これって全然おもしろくないね。俺、ドラクエやりたいからやめるわ」
と、急に拗ねてしまってお開きとなった。
「あの夏目ちゃんに渡すんなら堂々と渡せるよ」
夏目が描いた傑作の数々を思い出して、肩をくつくつと揺らしながらナリコがそう言うと、市川もそのことを思い出したようで、
「そうだね。あの日の夏目の絵。俺ちょっと、自分の画力に対して自信ついちゃったなぁ」
同じように肩をくつくつと揺らして笑いながら返してきた。
「あの後、夏目さぁ。自分の絵をシュレッダーにかけてたよ」
「うそー?シュレッダー?あはははははっ」
気さくなくせに、どこかプライドの高い夏目がやりそうなことに、またナリコは大笑いしてしまう。
「自分の汚点を、消し去りたかったんだよ」
市川は、珍しく夏目より優位に立てたことが嬉しかったらしい。
「あんだけお洒落な人が、絵がヘタって…ウケる。もう気の毒なくらいだよ」
と、まで言っている。
「じゃあ、イチさんが描くってことでいい?」
また笑いすぎで涙目になったナリコが聞いてみると、
「うん。やってみようかな」
と、市川は決心したようだ。
「そうだよ。描いてあげなよ。画材ならいくらでも貸してあげるしさ」
「ほんと?ありがとう。ついでにうまく描けるように教えてくれる?」
途端にやる気を出した市川。そんなことならお易いご用だ。
「いいよ」
二つ返事で引き受ける。
「やったー。じゃあ、ナリコに何かお礼をしないといけないな」
「えー、別にお礼なんていらないよ」
「そうもいかないよ。それじゃあ、俺の気持ちが済まないじゃん」
「そう?」
「そうだよ」
「じゃあ…」
言ってみようかな。
「じゃあ、イチさんの絵を描かせてくれる?」
思い切って言ってしまった。緊張で心臓がキリキリする。
「え?俺の絵?」
実は前々から思っていた。
市川の絵を描きたいと。
コソコソと自室で、市川のことを想いながらその姿を描いたことなら何度でもある。
だけどやっぱりライブで描きたい。リアリティが違うから。
「ねぇ、いいかな?」
「えー、俺?」
俺の絵なんか描いてどうすんの、何にも面白くないでしょ?などと言いながら、まんざらでもない表情の市川に更にお願いをしてみる。
「夏目ちゃんの絵を描いてるイチさんでいいからさ。イチさんの絵をみてあげてる間だけでもいいのよ」
「う…うん」
もう一押し。
「イチさん、スタイル抜群じゃん。足も腕も長くてかっこいいし、スッゴク絵心くすぐるのよ。ねぇ、いいでしょ?お願いします」
そう言って真剣な目で訴えかけるナリコに、
「そう…?そんなに言うなら。じゃあ…いいよ」
遂に市川が頷いた。
「ほんと?サンキュー」
顔に『ほっ』っと書いてあるんじゃないかというほど安心した顔で喜んでしまう。
「お礼、そんなことでいいの?」
「いい、いい。いい、いい」
「そう。それならいいんだけど」
そうだよー、とナリコは言葉を続ける。
「仕事の絵は別に全然描けるけど、やっぱり実物で描くトレーニングもしたいんだよねー」
聞かれてもないのにあれこれ理由を言ってしまう。
思いがけず念願が叶ってしまって動揺中。
「えー?じゃあ、イけてるポーズでもしようか?」
調子に乗った市川がふざけて自分を抱き締め、ナルシストなポーズをして見せた。
そんな変なポーズでもいいよ。
絵を描く間は、堂々と市川のことを見つめていられる。
『あぁ、絵をやってて良かった…』
ナリコは、絵の神様にでも聞かれたら怒られそうなことを心の底から思っていた。
好きな男からお願い事をされて、ドギマギしながらそう聞いたのに、
「夏目の誕生日、来月じゃん?」
と、恋人の話をされてしまった。
「あ…あぁ、そうなんだ」
「そうだよー」
忘れてたの?と、自分のことのように怒りながら市川が唇を尖らして文句を言ってくる。
「忘れてないよーっていうか、夏目ちゃんの誕生日が来月ってこと、今知ったよ」
「あ、え?そうなの?」
「そうだよー。夏目ちゃんと知り合って、初めてのお誕生日だよ」
「そっか、そっか。そりゃ怒って…悪いことしちゃったな」
イチさん、自分の早合点に照れてる。うぅ、そんなとこも好き。だから、協力してあげたくなる。
「分かった。ご馳走をたくさん作るよ。沙耶ちゃんにも手伝ってもらって…」
「そう?んじゃ、しゃぶしゃぶにしようよ。いいお肉買ってさ…って、あ。あの、それもそうなんだけど。それもお願いしたいんだけど」
違うの違うの、と、慌てたように市川が言葉を挟んでくる。
「え?なに?」
「夏目に渡す、誕生日プレゼントなんだけど…」
「うん?」
「ナリコ、夏目の絵を描いてくんない?」
「へぇ?」
思ってもなかった申し出に、思わず声が裏返る。
「絵?」
「そう絵をねー、お願いしたいんだよ」
自分のこのアイディアに市川は、自慢げに目を輝かせている。
「夏目ってさぁ、ご存知の通り、超おしゃれさんじゃん?」
まぁ、それはナリコも認める所だ。ショップ店員って、みんなあんなにもおしゃれなのかな。
「だから買ってきた物って、なんだか自信がない」
自信がないことには、自信を持って言ってくる。
「はぁ…」
だからさ、と市川。
「オンリーワンなものをあげたいんだよねー」
と。
なるほど。
「ナリコ、今の仕事の進行状況って、どんな感じ?」
「今やってるのは単発の仕事で…後は…いつもの連載が…一本…かな」
スケジュール帳をペラペラとめくりながらそう答える。
「描ける…感じ?」
「まぁ、描けない感じ…ではないよ。あとは、売り込みに行けるように新しい絵を描きたいなー、とは思ってるけど。またTシャツデザインのプレゼンがあるかもだから、その時用に絵を描き溜めておきたいし…でも別に、これは急ぎじゃないよ」
それを聞いて安心したような顔で市川がにこりとする。
「そっかぁー。描けない感じ、ではないかー」
だけどナリコにはひとつ疑問点があった。
「でもそれって」
「うん」
「私からのプレゼントになっちゃわない?」
「あ、あー…。やっぱそう思う?」
「思う」
やっぱりなー、などと言いながら、結局そう言われてしまって眉間にしわを寄せる。
どうしよう。うーん。と悩む市川を見ていてナリコはあるアイディアを思いついた。
「その絵、イチさんが描いてあげたら?」
「えぇ?俺が?」
思いがけないナリコの案に、市川は目をまるくして驚く。
「俺、絵、そんなにうまくないよー」
「でもヘタでもないよ」
と、ナリコ。
以前、市川と夏目の三人で揃って晩ご飯を食べた後に、うろ覚えでマンガキャラクターを描く、という遊びをしたことがある。
その時たまたま見ていた、バラエティ番組でそんなことをやっていて、
「おもしろそう、俺も描く」
と、言った夏目の言葉を受け、ナリコと市川もやってみることにしたのだ。
そこら辺に転がっていたメモとペンで描いてみる。
ルールは簡単。自分が描けそうなキャラクターを言って自らが描き、同時にほかのふたりにも描かせる、というものだ。
ナリコは一応絵のプロだから、案外どんなキャラクターでも描けた。でもやはり見てきたアニメが男の子とは違うから、ヒーローものなどは市川に完敗したのだ。
「イチさん、結構ウマいじゃん」
「いやー、でもやっぱナリコには勝てないでしょ」
「…」
お互いを褒め合うふたりを見ながら夏目は黙り込んでいた。
「ちょっと、夏目のも見せてよ」
そう言って身を寄せてくる市川を夏目が拒む。
「やだよ」
「なんでよ?夏目ちゃんがやろうって言い出したんでしょ?」
不思議そうにナリコが尋ねる。
「そうだけど…。でもやなのっ」
「いーじゃん見せてよ、夏目だけ見せないなんてズルいよ」
「うっさいなー。ちょ、市川さん。こっち来んなよっ」
「もぅー。夏目のが見たいんだってば」
「なんだよ?なにを見ようとしてんの。市川さん、なに欲情してんの?エロいな」
「な、なに言ってんんだよっ。バカ、違うよ。絵だってばっ」
「分かってるよ。でも見なくていいよ。見なくていいっつうの」
「見せろっつうのっ」
「やだっつうのっ。やめろっつうの」
「やめないっつうのっ」
そういったやり取りがしばらく続いたあと、一瞬の隙をついて市川が夏目の絵を取り上げた。
「あっ、市川っ。バカッ」
絵を奪われてすぐに飛びついたがもう遅かった。夏目より市川の方が背が高いから手を高く挙げられたらもう届かない。
「もー、バカ…バカ市川…」
市川に呪詛の言葉を呟きながらも諦めて夏目が席に戻る。
「どれどれ」
夏目の言葉など気にもせず腰をおろした市川は、取り上げた絵を見るとその紙を握りしめたまま肩を震わせ黙り込んだ。
「?」
ナリコも、何かに耐えているらしい市川の背後からその手元をのぞき込む。
そして、市川同様やっぱり黙り込んでしまった。
「…」
「…」
驚いた目でお互いの顔を見合わせたふたりは次の瞬間、
「うわははははははっ」
と、爆笑してしまう。
「なにこれ夏目?お前コレ、相当ヒドいよ」
ナリコを見ると、もう可笑しすぎて声にならず、身体を二つに折ったまま自分の腹筋をぐっと押さえてただただ肩を震わせていた。
自分からやると言いだしたくせに、夏目が描いたアニメヒーロー達があんまりにもおかしな感じに描かれていたから驚いてしまったのだ。
「仮面ライダーの顔、目までモロに見えてて、既に『仮面』の要素がないんですけどっ?」
「ドラえもんに耳があるっ」
「ピカチューがカバにしか見えないよっ」
「セーラームーンがショートカットなのは、なんでっ?」
「コロスケにちょんまげが二本あるっ」
などなど、市川とナリコは気が済むまで涙を流して笑った。
ぜいぜい喘いで、やっと息ができるようになったナリコが、
「なにこれ、夏目ちゃんっ。もうある意味天才の域越えてるよ」
と、夏目を褒める。
「夏目、いや、夏目画伯。もっと描いて下さいよ」
「お願い、夏目ちゃん。もっと見せて」
ふたりは涙目で夏目にねだった。
最初は「なんだよー」などと言いつつも、大ウケしたことに少し気を良くしていた夏目だったが、あんまりにもふたりがしつこくしつこく笑うものだから最終的には、
「これって全然おもしろくないね。俺、ドラクエやりたいからやめるわ」
と、急に拗ねてしまってお開きとなった。
「あの夏目ちゃんに渡すんなら堂々と渡せるよ」
夏目が描いた傑作の数々を思い出して、肩をくつくつと揺らしながらナリコがそう言うと、市川もそのことを思い出したようで、
「そうだね。あの日の夏目の絵。俺ちょっと、自分の画力に対して自信ついちゃったなぁ」
同じように肩をくつくつと揺らして笑いながら返してきた。
「あの後、夏目さぁ。自分の絵をシュレッダーにかけてたよ」
「うそー?シュレッダー?あはははははっ」
気さくなくせに、どこかプライドの高い夏目がやりそうなことに、またナリコは大笑いしてしまう。
「自分の汚点を、消し去りたかったんだよ」
市川は、珍しく夏目より優位に立てたことが嬉しかったらしい。
「あんだけお洒落な人が、絵がヘタって…ウケる。もう気の毒なくらいだよ」
と、まで言っている。
「じゃあ、イチさんが描くってことでいい?」
また笑いすぎで涙目になったナリコが聞いてみると、
「うん。やってみようかな」
と、市川は決心したようだ。
「そうだよ。描いてあげなよ。画材ならいくらでも貸してあげるしさ」
「ほんと?ありがとう。ついでにうまく描けるように教えてくれる?」
途端にやる気を出した市川。そんなことならお易いご用だ。
「いいよ」
二つ返事で引き受ける。
「やったー。じゃあ、ナリコに何かお礼をしないといけないな」
「えー、別にお礼なんていらないよ」
「そうもいかないよ。それじゃあ、俺の気持ちが済まないじゃん」
「そう?」
「そうだよ」
「じゃあ…」
言ってみようかな。
「じゃあ、イチさんの絵を描かせてくれる?」
思い切って言ってしまった。緊張で心臓がキリキリする。
「え?俺の絵?」
実は前々から思っていた。
市川の絵を描きたいと。
コソコソと自室で、市川のことを想いながらその姿を描いたことなら何度でもある。
だけどやっぱりライブで描きたい。リアリティが違うから。
「ねぇ、いいかな?」
「えー、俺?」
俺の絵なんか描いてどうすんの、何にも面白くないでしょ?などと言いながら、まんざらでもない表情の市川に更にお願いをしてみる。
「夏目ちゃんの絵を描いてるイチさんでいいからさ。イチさんの絵をみてあげてる間だけでもいいのよ」
「う…うん」
もう一押し。
「イチさん、スタイル抜群じゃん。足も腕も長くてかっこいいし、スッゴク絵心くすぐるのよ。ねぇ、いいでしょ?お願いします」
そう言って真剣な目で訴えかけるナリコに、
「そう…?そんなに言うなら。じゃあ…いいよ」
遂に市川が頷いた。
「ほんと?サンキュー」
顔に『ほっ』っと書いてあるんじゃないかというほど安心した顔で喜んでしまう。
「お礼、そんなことでいいの?」
「いい、いい。いい、いい」
「そう。それならいいんだけど」
そうだよー、とナリコは言葉を続ける。
「仕事の絵は別に全然描けるけど、やっぱり実物で描くトレーニングもしたいんだよねー」
聞かれてもないのにあれこれ理由を言ってしまう。
思いがけず念願が叶ってしまって動揺中。
「えー?じゃあ、イけてるポーズでもしようか?」
調子に乗った市川がふざけて自分を抱き締め、ナルシストなポーズをして見せた。
そんな変なポーズでもいいよ。
絵を描く間は、堂々と市川のことを見つめていられる。
『あぁ、絵をやってて良かった…』
ナリコは、絵の神様にでも聞かれたら怒られそうなことを心の底から思っていた。
2008.09.07 Sunday
12
夏目にバレるといけないので、ナリコの絵画教室は、夏目が仕事から帰って来る前か出勤している週末、夏目の留守中に行われた。
「あいつ、あんまし写真撮らせてくれないんだよ。俺、夏目の写真は一枚くらいしか持ってない」
そう言う市川の言葉を受けて、絵を描くことに決めて以降、みんなで飲みに行った帰りには、
「プリクラ撮ろう」
と、毎回ナリコから誘った。
普通は人数分で分けれるように細かいシートを選ぶのだが、なんせ夏目の写真を手に入れることが目的なので、大きな一枚刷りをナリコは時々選んだ(沙耶にも事情は話してあり、協力を仰いであった)。
「なんでそんなおっきいのにすんの?」
そんなナリコを初めは訝しがっていた夏目だったけれど(その時あまりにも市川が動揺するので、ナリコは「夏目の絵を描いている計画」がばれるんじゃないかとヒヤヒヤした)、
「いいじゃん別に。なんとなくだよ」
と、でも言っておけば、
「まぁ別に、俺も市川さんの写真なんかいらないからそれでいいけどね」
と、特に気にはしなかった。
「とにかく枚数を描こう、イチさん」
それがナリコの似顔絵の考え方だった。
「たくさん描いて、一番素敵なのをあげよう」
「わかった」
なんにでも真面目に取り組む市川は、絵に対してもそうだった。
ナリコの持っている画材―色鉛筆やオイルパステル、アクリルガッシュに、漫画原稿に使うトーン、時にはちぎり絵までーを片っ端から試してゆき、色んな夏目を描いていった。
『まただ。またイチさんのあの目』
自分が描く夏目に対してまで市川は、あのナリコの好きな「夏目を想う市川の目」をしていた。
それはたまに熱っぽくもあり、優しさに満ちていることもあり、時には寂しさまで感じさせるのだった。
そしてそんな市川を、今度はナリコが描きとめる。
声を掛けることすら阻まれる程真剣に絵に取り組む市川、穏やかに制作を楽しんでいる市川、上手く描けなくて苦悶の色を覗かせている市川、そして、冗談を言いながら楽しそうにナリコに笑い掛けてくる市川。
どの市川を描いていてもナリコは、心の芯が熱くなって指先が甘く痺れるような感覚を覚えずにはいられなかった。
でもそれらは結局、夏目のためにある市川。
手を伸ばせばその愛しい頬に手が届くだろう。
それほど近くにいるのに、目の前の市川は目の前のナリコを見ていない。
この報われない感じに思わず涙が滲みそうになる。
描いている途中のスケッチブックの中で笑う、市川の輪郭がぼわぼわと歪んでよく見えない。
「ナリコ?」
涙をこらえて鼻をすするナリコに市川が心配そうな目を向けてくる。
「はは、ごめん。ちょっと、今年は花粉がまだまだ飛んでるみたい」
立ち上がって窓を閉めに行った。季節はもう五月。花粉の季節も終わる頃。
ティッシュをとって涙を吸い取り、そのまま思い切り鼻をかんで鏡を見る。
「ははは。やだなー、私。目も赤いなー。ちょっと目薬もさしておこう」
「大丈夫?」
「うんうん。ごめんね。お見苦しいことで」
涙と目薬が混ぜ合わさった雫がナリコの頬をつたう。
「さ、続きを描こう」
濡れた頬を手の甲で拭いながらそう言って自分を励ました。
胸の奥がちりちりと焼ける音がする。
それでも描かずにはいられなかった。
報われないなら報われないで、せめて自分の気持ちの軌跡を残したい。
イチさんのことが好きだよ。
イチさんのことが大好きだよ。
イチさん…。
そう思うとまた市川の輪郭がぼわぼわと歪んでくる。
「やだなー、花粉。しつこいよ」
もう一度そう言って笑ってみる。
しつこいのは花粉じゃなくて私の気持ち。
それでもやっぱり今は市川への気持ちを描いていたいと思う。
「あいつ、あんまし写真撮らせてくれないんだよ。俺、夏目の写真は一枚くらいしか持ってない」
そう言う市川の言葉を受けて、絵を描くことに決めて以降、みんなで飲みに行った帰りには、
「プリクラ撮ろう」
と、毎回ナリコから誘った。
普通は人数分で分けれるように細かいシートを選ぶのだが、なんせ夏目の写真を手に入れることが目的なので、大きな一枚刷りをナリコは時々選んだ(沙耶にも事情は話してあり、協力を仰いであった)。
「なんでそんなおっきいのにすんの?」
そんなナリコを初めは訝しがっていた夏目だったけれど(その時あまりにも市川が動揺するので、ナリコは「夏目の絵を描いている計画」がばれるんじゃないかとヒヤヒヤした)、
「いいじゃん別に。なんとなくだよ」
と、でも言っておけば、
「まぁ別に、俺も市川さんの写真なんかいらないからそれでいいけどね」
と、特に気にはしなかった。
「とにかく枚数を描こう、イチさん」
それがナリコの似顔絵の考え方だった。
「たくさん描いて、一番素敵なのをあげよう」
「わかった」
なんにでも真面目に取り組む市川は、絵に対してもそうだった。
ナリコの持っている画材―色鉛筆やオイルパステル、アクリルガッシュに、漫画原稿に使うトーン、時にはちぎり絵までーを片っ端から試してゆき、色んな夏目を描いていった。
『まただ。またイチさんのあの目』
自分が描く夏目に対してまで市川は、あのナリコの好きな「夏目を想う市川の目」をしていた。
それはたまに熱っぽくもあり、優しさに満ちていることもあり、時には寂しさまで感じさせるのだった。
そしてそんな市川を、今度はナリコが描きとめる。
声を掛けることすら阻まれる程真剣に絵に取り組む市川、穏やかに制作を楽しんでいる市川、上手く描けなくて苦悶の色を覗かせている市川、そして、冗談を言いながら楽しそうにナリコに笑い掛けてくる市川。
どの市川を描いていてもナリコは、心の芯が熱くなって指先が甘く痺れるような感覚を覚えずにはいられなかった。
でもそれらは結局、夏目のためにある市川。
手を伸ばせばその愛しい頬に手が届くだろう。
それほど近くにいるのに、目の前の市川は目の前のナリコを見ていない。
この報われない感じに思わず涙が滲みそうになる。
描いている途中のスケッチブックの中で笑う、市川の輪郭がぼわぼわと歪んでよく見えない。
「ナリコ?」
涙をこらえて鼻をすするナリコに市川が心配そうな目を向けてくる。
「はは、ごめん。ちょっと、今年は花粉がまだまだ飛んでるみたい」
立ち上がって窓を閉めに行った。季節はもう五月。花粉の季節も終わる頃。
ティッシュをとって涙を吸い取り、そのまま思い切り鼻をかんで鏡を見る。
「ははは。やだなー、私。目も赤いなー。ちょっと目薬もさしておこう」
「大丈夫?」
「うんうん。ごめんね。お見苦しいことで」
涙と目薬が混ぜ合わさった雫がナリコの頬をつたう。
「さ、続きを描こう」
濡れた頬を手の甲で拭いながらそう言って自分を励ました。
胸の奥がちりちりと焼ける音がする。
それでも描かずにはいられなかった。
報われないなら報われないで、せめて自分の気持ちの軌跡を残したい。
イチさんのことが好きだよ。
イチさんのことが大好きだよ。
イチさん…。
そう思うとまた市川の輪郭がぼわぼわと歪んでくる。
「やだなー、花粉。しつこいよ」
もう一度そう言って笑ってみる。
しつこいのは花粉じゃなくて私の気持ち。
それでもやっぱり今は市川への気持ちを描いていたいと思う。
2008.09.07 Sunday
13
「あー、頑張った。ちょっと休憩しよう」
伸びをしながら市川が立ち上がった。
ナリコは絵に夢中になり過ぎて黙り込んでいる。
さっきまで描いていた市川のスケッチに手を入れるのに夢中になっているのだ。
私の気持ち。これは私の気持ち。
市川への想い。
絵を描くことでその熱を逃がしている。
そう思いながら描いていると、目の前にいる市川が愛しいのか、絵の中の市川が愛しいのかが分からなくなってくる。
「ナーリーコ。ナリコ?」
市川に顔をのぞき込まれてはっと意識が戻る。
「あ、ごめ、イチさん」
「いえいえ。熱心だね、見せてよ」
「え」
ほぼ完成したナリコの絵を市川が覗く。
そして市川はその絵にどきりとしてしまった。
そこには、ナリコからの愛情に溢れた市川を描いた絵。
「え、あ…。お、俺…。俺、こんなにかっこよくないよ」
とりあえずそう言って、照れて見せる。
「え?あー、そう?変かな?」
市川が照れているのを受けて、ナリコまでぎこちなくなってしまう。
「ぜ、全然変じゃないよ。でも、ちょ、ちょっと。俺、紅茶でも淹れてくるわ」
そう言うと市川は、ぱたぱたと階段を降りて台所に駆けて行った。
「え?え?なに?そんなに変かな?」
改めて自分の絵を見てみる。
ちょっと…思い詰めちゃったな…。感情移入し過ぎ?
不安になったナリコは、市川の淹れてくれた紅茶を飲み干すと、
「イチさん、今日はここまででいいかな?」
「う、うん。いいよ」
ぎこちないまま市川に断りをいれて、描き上がった絵を持って出掛けてしまった。
「どう思う?」
いつものカフェで、チョコレートパフェふたつを挟んで沙耶と向き合うナリコ。
「パフェおごるからちょっと来て」
そう言って、沙耶の休憩時間中に無理を言って来てもらったのだ。
「これって…」
絵をしばらく見つめていた沙耶が言いよどむ。
「これって、市川くんに見られたの?」
「う…うん」
「あー」
そう言ったまま天を仰ぐ沙耶。
「え、なになに?やっぱ変?マズかったかな」
「いや、変じゃないし、マズくもないんだけど」
「うん」
「バレちゃったかもね」
「えっぇ?」
ナリコが間抜けな声を上げる。
「バレたって、なにが?」
「なにってそりゃあ…。ナリコが市川くんに惚れてるってことに決まってんじゃん」
「うそ…」
「ほんと、ほんと」
それならば合点がいく。あの市川のぎこちなさ。
「あー…」
やっちゃったねー、と、淡く笑いながらパフェをつつく沙耶。
「まさか、コレ、夏目くんに見られてないでしょうね?」
「それは大丈夫。さっき描き上がったばっかだし」
「なら良かった…」
「どうしよう?沙耶ちゃん」
「さあて。どうしようねぇ?」
大体無理があったんだ。
同居人を好きになって、その同居人には恋人がいて、しかも男で。
本人に打ち明けてはいけない。
溜めに溜めたその想いが絵に溢れてしまった。
「でもこれ、いい絵だね。絵として私は好きだよ。ちょうだいよ」
家にヘタに置いておいて夏目ちゃんに見られてしまうのよりいいかもしれない。
「うん。いいよ。もらってください」
ナリコは沙耶に絵を渡した。
伸びをしながら市川が立ち上がった。
ナリコは絵に夢中になり過ぎて黙り込んでいる。
さっきまで描いていた市川のスケッチに手を入れるのに夢中になっているのだ。
私の気持ち。これは私の気持ち。
市川への想い。
絵を描くことでその熱を逃がしている。
そう思いながら描いていると、目の前にいる市川が愛しいのか、絵の中の市川が愛しいのかが分からなくなってくる。
「ナーリーコ。ナリコ?」
市川に顔をのぞき込まれてはっと意識が戻る。
「あ、ごめ、イチさん」
「いえいえ。熱心だね、見せてよ」
「え」
ほぼ完成したナリコの絵を市川が覗く。
そして市川はその絵にどきりとしてしまった。
そこには、ナリコからの愛情に溢れた市川を描いた絵。
「え、あ…。お、俺…。俺、こんなにかっこよくないよ」
とりあえずそう言って、照れて見せる。
「え?あー、そう?変かな?」
市川が照れているのを受けて、ナリコまでぎこちなくなってしまう。
「ぜ、全然変じゃないよ。でも、ちょ、ちょっと。俺、紅茶でも淹れてくるわ」
そう言うと市川は、ぱたぱたと階段を降りて台所に駆けて行った。
「え?え?なに?そんなに変かな?」
改めて自分の絵を見てみる。
ちょっと…思い詰めちゃったな…。感情移入し過ぎ?
不安になったナリコは、市川の淹れてくれた紅茶を飲み干すと、
「イチさん、今日はここまででいいかな?」
「う、うん。いいよ」
ぎこちないまま市川に断りをいれて、描き上がった絵を持って出掛けてしまった。
「どう思う?」
いつものカフェで、チョコレートパフェふたつを挟んで沙耶と向き合うナリコ。
「パフェおごるからちょっと来て」
そう言って、沙耶の休憩時間中に無理を言って来てもらったのだ。
「これって…」
絵をしばらく見つめていた沙耶が言いよどむ。
「これって、市川くんに見られたの?」
「う…うん」
「あー」
そう言ったまま天を仰ぐ沙耶。
「え、なになに?やっぱ変?マズかったかな」
「いや、変じゃないし、マズくもないんだけど」
「うん」
「バレちゃったかもね」
「えっぇ?」
ナリコが間抜けな声を上げる。
「バレたって、なにが?」
「なにってそりゃあ…。ナリコが市川くんに惚れてるってことに決まってんじゃん」
「うそ…」
「ほんと、ほんと」
それならば合点がいく。あの市川のぎこちなさ。
「あー…」
やっちゃったねー、と、淡く笑いながらパフェをつつく沙耶。
「まさか、コレ、夏目くんに見られてないでしょうね?」
「それは大丈夫。さっき描き上がったばっかだし」
「なら良かった…」
「どうしよう?沙耶ちゃん」
「さあて。どうしようねぇ?」
大体無理があったんだ。
同居人を好きになって、その同居人には恋人がいて、しかも男で。
本人に打ち明けてはいけない。
溜めに溜めたその想いが絵に溢れてしまった。
「でもこれ、いい絵だね。絵として私は好きだよ。ちょうだいよ」
家にヘタに置いておいて夏目ちゃんに見られてしまうのよりいいかもしれない。
「うん。いいよ。もらってください」
ナリコは沙耶に絵を渡した。
2008.09.07 Sunday
14
沙耶と別れてからもなんとなくまっすぐ家に帰る気にはなれなくて、本屋をのぞいたり雑貨屋をあてもなくぶらぶらしているうちに日が暮れてしまった。
私が好きなのは『夏目ちゃんを好きなイチさん』。
でもそんなイチさんを想うのがなかなか辛くなってきた。
だけど、だからって夏目ちゃんからイチさんを奪う気はない。
じゃあどうするのがいいの?
それは…わからない。
本当にわからないけど、だけど。
とにかく、夏目ちゃんにこの気持ちがバレちゃだめだ。
あぁ、しかしイチさんに会うのが気まずい。
けれどナリコの帰る場所には市川がいて、夏目がいる。それは避けられない。そしてそれは、避けたくもないし。
考えたところで答えの出ない色んな想いにフラフラしながらもやっぱり結局ふたりの待つ家に帰ってきた。
「お、ナリコ。おかえりー」
市川と晩ご飯を食べていた夏目が、ビールの入ったグラスを片手に屈託のない笑顔を向けてくる。
「今日の晩ご飯、焼きそばだけど食べる?久々に市川さんが作ったんだよ」
ソースの香ばしい香り。
「あ、うん。もらおうかな」
「ん、あ、じゃあ俺、用意するね」
ナリコの目を見ないままで席を立とうとする市川。
「あ、いや、いいよ。私、自分でする」
「で、でも俺が」
「いいよ、いいよ。イチさんは座ってて」
「え、でも…」
「いいから、ほんとに」
「いや、俺がやるってば…」
そうやってふたりでばたばたしているうちに、市川がガターンと、なみなみと水が注がれたグラスを倒してしまった。
「あぁっ。市川っ。バカッ」
夏目があわてて立ち上がる。
「ご、ごめん」
「何やってんだよー。まったくぅー。ナリコ、布巾とって」
「は、はい」
なにやってんだろ、私。
「なんだよ、ふたりともー。なんか変だよ」
「えっ?え?変?」
「全然そんなことないよ」
ふたりして必死で誤魔化してみるが、
「喧嘩でもした?」
夏目にそう指摘されて、固まってしまった。
「もうー、やっぱりそうなの?なんでもいいけどさ。俺に迷惑かけないでよ」
「ごめん。夏目」
「ごめん。夏目ちゃん」
「あー、ふたりのせいでお気に入りの服が濡れたー」
このぎくしゃくを和まそうと、自分のシャツを拭きながら夏目が笑って言う。
今は、夏目が思っているように喧嘩をしたことにしておくのがいい。そのことを否定してまで、ぎこちなさの訳を詳しく夏目に説明する意味はない。
「ほら、仲直りの握手して」
夏目が、ナリコと市川の右手を取って握手をさせる。
ナリコは市川に触れたことで一瞬にして身体がかっと熱くなったがそれを必死でこらえた。
触れた市川の手にも戸惑いが感じてとれる。
「ごめん、イチさん」
「ごめん、ナリコ」
謝りあうふたりを見て満足そうに夏目が、
「さ、早く食べよ?」
きれいに拭かれたテーブルの上に改めて焼きそばの乗った皿を並べる。
「ナリコ、市川さん。グラス持って」
うながされるままグラスを持つと、夏目がそこにビールを注いできた。
「さぁ、今日は飲んじゃいますよー」
なんて言いながら。
「ごめん、夏目ちゃん」
ナリコはもう一度夏目に謝った。
「はは。いいって、もう」
「ほんと…ごめんね」
イチさんを好きってことで、夏目ちゃんに迷惑かけたらダメだよ、私。
私が好きなのは『夏目ちゃんを好きなイチさん』。
でもそんなイチさんを想うのがなかなか辛くなってきた。
だけど、だからって夏目ちゃんからイチさんを奪う気はない。
じゃあどうするのがいいの?
それは…わからない。
本当にわからないけど、だけど。
とにかく、夏目ちゃんにこの気持ちがバレちゃだめだ。
あぁ、しかしイチさんに会うのが気まずい。
けれどナリコの帰る場所には市川がいて、夏目がいる。それは避けられない。そしてそれは、避けたくもないし。
考えたところで答えの出ない色んな想いにフラフラしながらもやっぱり結局ふたりの待つ家に帰ってきた。
「お、ナリコ。おかえりー」
市川と晩ご飯を食べていた夏目が、ビールの入ったグラスを片手に屈託のない笑顔を向けてくる。
「今日の晩ご飯、焼きそばだけど食べる?久々に市川さんが作ったんだよ」
ソースの香ばしい香り。
「あ、うん。もらおうかな」
「ん、あ、じゃあ俺、用意するね」
ナリコの目を見ないままで席を立とうとする市川。
「あ、いや、いいよ。私、自分でする」
「で、でも俺が」
「いいよ、いいよ。イチさんは座ってて」
「え、でも…」
「いいから、ほんとに」
「いや、俺がやるってば…」
そうやってふたりでばたばたしているうちに、市川がガターンと、なみなみと水が注がれたグラスを倒してしまった。
「あぁっ。市川っ。バカッ」
夏目があわてて立ち上がる。
「ご、ごめん」
「何やってんだよー。まったくぅー。ナリコ、布巾とって」
「は、はい」
なにやってんだろ、私。
「なんだよ、ふたりともー。なんか変だよ」
「えっ?え?変?」
「全然そんなことないよ」
ふたりして必死で誤魔化してみるが、
「喧嘩でもした?」
夏目にそう指摘されて、固まってしまった。
「もうー、やっぱりそうなの?なんでもいいけどさ。俺に迷惑かけないでよ」
「ごめん。夏目」
「ごめん。夏目ちゃん」
「あー、ふたりのせいでお気に入りの服が濡れたー」
このぎくしゃくを和まそうと、自分のシャツを拭きながら夏目が笑って言う。
今は、夏目が思っているように喧嘩をしたことにしておくのがいい。そのことを否定してまで、ぎこちなさの訳を詳しく夏目に説明する意味はない。
「ほら、仲直りの握手して」
夏目が、ナリコと市川の右手を取って握手をさせる。
ナリコは市川に触れたことで一瞬にして身体がかっと熱くなったがそれを必死でこらえた。
触れた市川の手にも戸惑いが感じてとれる。
「ごめん、イチさん」
「ごめん、ナリコ」
謝りあうふたりを見て満足そうに夏目が、
「さ、早く食べよ?」
きれいに拭かれたテーブルの上に改めて焼きそばの乗った皿を並べる。
「ナリコ、市川さん。グラス持って」
うながされるままグラスを持つと、夏目がそこにビールを注いできた。
「さぁ、今日は飲んじゃいますよー」
なんて言いながら。
「ごめん、夏目ちゃん」
ナリコはもう一度夏目に謝った。
「はは。いいって、もう」
「ほんと…ごめんね」
イチさんを好きってことで、夏目ちゃんに迷惑かけたらダメだよ、私。
2008.09.12 Friday
15
「ナリコごめん」
沙耶に絵を渡してから数週間後、今度はナリコが沙耶から呼び出された。
「なになに、どうしたの?沙耶ちゃん。顔見るなりいきなり謝るなんて、らしくないじゃない?」
いつものカフェ。
クリームソーダを下さい、と、オーダーしながらナリコは席に着いた。
「あれから市川くんと、どう?」
「どうって何が?」
「気まずく…なってない?」
「あー。うん。ありがとう、大丈夫。普段通りだよ」
絵を教えるのをぎこちないまま途中で切り上げたあの日以降、あれから市川に絵は教えていない。
市川は一人で絵を仕上げたらしい。
「ナリコ。夏目の絵が完成したよ」
そう言って、描き上がった絵を見せてくれた。
ラメをたっぷり使った、お洒落な夏目にふさわしい、華やかな作品に仕上がっていた。
「いい絵だね。きっと夏目ちゃん、喜ぶよ」
「うん、どうもありがとう。ほんとにナリコのお陰だね」
「そんなそんな」
イチさんが頑張ったからだよ。いやそんなことない、俺一人じゃ無理だったもん。
お互い謙遜し合ったりの、なんとなくぎこちないやりとりの後に市川が、
「それでお礼になるか分かんないんだけど、理科の授業で俺が育てた紫陽花、ナリコにあげる」
遠慮がちに差し出してきたのは、まだ緑のつぼみの紫陽花の鉢植え。青いプラスチックの四角い鉢植えにはマジックで「いちかわ」と書いてある。
「え、もらっていいの?」
「うん。もらってください。俺、ナリコにあげるつもりで頑張って育てたんだ。来月の梅雨の頃にはちゃんと咲くと思うよ」
私の為に頑張って育てた…。市川の何気ない一言にナリコは簡単に感動してしまう。
「ありがとう。大事に育てるね」
「うん。花が咲くの、俺も楽しみにしてるね。それと」
一度唇を堅く結ぶ間をとった後、市川は言葉を続けた。
「今から絵を入れる額を買いに行くんだけど。ナリコ、ついてきてくれないかな?どの額がよく合うか、見立てて欲しい」
市川なりに、ナリコとの気まずさを解消したかったらしい。早口で一気にそう言った市川の唇が少し震えていたのは見なかったことにした。
そして一緒に出かけ、額を選ぶのを手伝った。
その間ふたりっきりだったけど、市川はいつも通りの市川であろうとしていたから、ナリコも努めて今まで通りに振る舞った。
それからは特になにも問題はない。
もちろん夏目もなにも気付いてはいない。
「それで、なに?なんで沙耶ちゃん、謝ってんの?」
「まさか…っていうと失礼かもしれないけど、ホントまさか通るなんて思わなくて…」
「だから何が?全然話が見えないよ」
訝しげな表情でナリコに言われ、そうよね、うん、と、咳払いを一つしてから沙耶はナリコに向き直った。
「ナリコの絵、コンペに通っちゃった」
「へ?」
沙耶が言うには、イラストレーターの登竜門とも言うべき、ある雑誌の誌上コンペに、先日ナリコが沙耶にあげた絵が入選したのだという。
「うそ…。やった…嬉しい…」
いつかは絶対に通りたいと思っていたそのコンペ。ナリコは泣き出さんばかりに喜んでいた。
「勝手に応募してごめんね。でもあんまりにもいい出来だったからつい」
「そ、そんな。謝ることなんてないよ。ほんと…ありがとう。嬉しい…」
しかし、次の瞬間ナリコは気付く。
「っていうか、ヤバいじゃんっ」
そんなコンペに通ったこと、夏目に隠し通せるはずがない。
「沙耶ちゃん、どうしよう?」
今回ばっかりは沙耶もいつものように落ち着いてはいられない。自分が蒔いた種だから。
「ナリコ、どうしよう?」
あの鈍感な市川でさえ違和感を覚えた絵だ。夏目が何も思わないはずがない。
「どうしよう。どうしよう」
何か策を練らなくちゃ。
うーん…と、しばらく黙り込んでいた沙耶が突然ひらめく。
「ナリコ。ナリコも夏目くんの絵、描きなよ?」
「え?絵を?」
「そうだよ、それがいいよ。市川くんを描いたみたいに、夏目くんの絵を描いてさ。そんで、誕生日にあげるの。どうかな、これ?」
「そっか…。それはいいかも…。でも、上手く描けるかな?」
市川への想いで涙がこぼれそうになりながらも描いた絵だ。同じ気持ちで描けるんだろうか?
「描くしかないでしょ?プロなんだから。絶対描かなきゃ」
沙耶はしきりに励ましてくるが、
「そんな簡単に言わないでよ…」
ナリコは不安に顔を歪めずにはいられなかった。
夏目のことはもちろん大好きだけど、市川のことはさらに別の感情で大好きで、だから入選するような絵を描けたんだと思う。あの想いは市川に向けたものだ。
「でも、ナリコならきっと描けるよ」
「う、うん…」
描けるかどうかは判らない。
でも、もう、やるしかないな。沙耶ちゃんの言う通り、ここでプロ根性を見せよう。
今の関係が壊れるようなことになるのはどうしても避けたい。それならばやはり描くしかない。
「沙耶ちゃん。私やってみる。だから、チェックお願いね」
「分かった。頑張ろう」
解決策が見つかってほっとしたのか、
「私は夏目くんに何をあげようかな?」
なんて、沙耶はもう次の話題に移っていた。
沙耶に絵を渡してから数週間後、今度はナリコが沙耶から呼び出された。
「なになに、どうしたの?沙耶ちゃん。顔見るなりいきなり謝るなんて、らしくないじゃない?」
いつものカフェ。
クリームソーダを下さい、と、オーダーしながらナリコは席に着いた。
「あれから市川くんと、どう?」
「どうって何が?」
「気まずく…なってない?」
「あー。うん。ありがとう、大丈夫。普段通りだよ」
絵を教えるのをぎこちないまま途中で切り上げたあの日以降、あれから市川に絵は教えていない。
市川は一人で絵を仕上げたらしい。
「ナリコ。夏目の絵が完成したよ」
そう言って、描き上がった絵を見せてくれた。
ラメをたっぷり使った、お洒落な夏目にふさわしい、華やかな作品に仕上がっていた。
「いい絵だね。きっと夏目ちゃん、喜ぶよ」
「うん、どうもありがとう。ほんとにナリコのお陰だね」
「そんなそんな」
イチさんが頑張ったからだよ。いやそんなことない、俺一人じゃ無理だったもん。
お互い謙遜し合ったりの、なんとなくぎこちないやりとりの後に市川が、
「それでお礼になるか分かんないんだけど、理科の授業で俺が育てた紫陽花、ナリコにあげる」
遠慮がちに差し出してきたのは、まだ緑のつぼみの紫陽花の鉢植え。青いプラスチックの四角い鉢植えにはマジックで「いちかわ」と書いてある。
「え、もらっていいの?」
「うん。もらってください。俺、ナリコにあげるつもりで頑張って育てたんだ。来月の梅雨の頃にはちゃんと咲くと思うよ」
私の為に頑張って育てた…。市川の何気ない一言にナリコは簡単に感動してしまう。
「ありがとう。大事に育てるね」
「うん。花が咲くの、俺も楽しみにしてるね。それと」
一度唇を堅く結ぶ間をとった後、市川は言葉を続けた。
「今から絵を入れる額を買いに行くんだけど。ナリコ、ついてきてくれないかな?どの額がよく合うか、見立てて欲しい」
市川なりに、ナリコとの気まずさを解消したかったらしい。早口で一気にそう言った市川の唇が少し震えていたのは見なかったことにした。
そして一緒に出かけ、額を選ぶのを手伝った。
その間ふたりっきりだったけど、市川はいつも通りの市川であろうとしていたから、ナリコも努めて今まで通りに振る舞った。
それからは特になにも問題はない。
もちろん夏目もなにも気付いてはいない。
「それで、なに?なんで沙耶ちゃん、謝ってんの?」
「まさか…っていうと失礼かもしれないけど、ホントまさか通るなんて思わなくて…」
「だから何が?全然話が見えないよ」
訝しげな表情でナリコに言われ、そうよね、うん、と、咳払いを一つしてから沙耶はナリコに向き直った。
「ナリコの絵、コンペに通っちゃった」
「へ?」
沙耶が言うには、イラストレーターの登竜門とも言うべき、ある雑誌の誌上コンペに、先日ナリコが沙耶にあげた絵が入選したのだという。
「うそ…。やった…嬉しい…」
いつかは絶対に通りたいと思っていたそのコンペ。ナリコは泣き出さんばかりに喜んでいた。
「勝手に応募してごめんね。でもあんまりにもいい出来だったからつい」
「そ、そんな。謝ることなんてないよ。ほんと…ありがとう。嬉しい…」
しかし、次の瞬間ナリコは気付く。
「っていうか、ヤバいじゃんっ」
そんなコンペに通ったこと、夏目に隠し通せるはずがない。
「沙耶ちゃん、どうしよう?」
今回ばっかりは沙耶もいつものように落ち着いてはいられない。自分が蒔いた種だから。
「ナリコ、どうしよう?」
あの鈍感な市川でさえ違和感を覚えた絵だ。夏目が何も思わないはずがない。
「どうしよう。どうしよう」
何か策を練らなくちゃ。
うーん…と、しばらく黙り込んでいた沙耶が突然ひらめく。
「ナリコ。ナリコも夏目くんの絵、描きなよ?」
「え?絵を?」
「そうだよ、それがいいよ。市川くんを描いたみたいに、夏目くんの絵を描いてさ。そんで、誕生日にあげるの。どうかな、これ?」
「そっか…。それはいいかも…。でも、上手く描けるかな?」
市川への想いで涙がこぼれそうになりながらも描いた絵だ。同じ気持ちで描けるんだろうか?
「描くしかないでしょ?プロなんだから。絶対描かなきゃ」
沙耶はしきりに励ましてくるが、
「そんな簡単に言わないでよ…」
ナリコは不安に顔を歪めずにはいられなかった。
夏目のことはもちろん大好きだけど、市川のことはさらに別の感情で大好きで、だから入選するような絵を描けたんだと思う。あの想いは市川に向けたものだ。
「でも、ナリコならきっと描けるよ」
「う、うん…」
描けるかどうかは判らない。
でも、もう、やるしかないな。沙耶ちゃんの言う通り、ここでプロ根性を見せよう。
今の関係が壊れるようなことになるのはどうしても避けたい。それならばやはり描くしかない。
「沙耶ちゃん。私やってみる。だから、チェックお願いね」
「分かった。頑張ろう」
解決策が見つかってほっとしたのか、
「私は夏目くんに何をあげようかな?」
なんて、沙耶はもう次の話題に移っていた。
2008.09.12 Friday
16
今日は夏目の三十回目の誕生日。
沙耶にも手伝ってもらって市川の指定通り、しゃぶしゃぶの用意をした。
そして三人して、いつも通りに出勤して行った夏目の帰りを玄関先で待つ。
「ただいまー…」
いつものように玄関の扉を開けた夏目を、クラッカーを鳴らして盛大に出迎える。
「うわっ。びっくりしたっ」
「お誕生日おめでとうっ」
口々にそう叫びながら。
「うそー、なに?祝ってくれるの?ありがとう」
夏目は、ビックリしながらも嬉しそうだ。
「クラッカーとかベタだけど、なかなか嬉しいもんだね」
とかなんとか言っている。
「夏目ちゃん、今日は夏目ちゃんの好きなしゃぶしゃぶだよ」
と、ナリコ。
「うそー。マジで?ありがとう。嬉しいー。腹減ったー」
「バースデーケーキもあるのよ。ロウソクも歳の数だけ立てました」
と、沙耶。
「えー。サンキュ。三十本も立てるの大変だったでしょ?」
「プレゼントもあります。じゃーん」
と、市川。
「おぉ。ありがとう。開けてもいい?」
「いいよ」
きれいにラッピングされた包み紙を早速開けてみる。
「わぁ、なにこれ?市川さんが描いたの?スゲーじゃん」
市川が描いた絵は、やはり夏目への愛情が満ちており、そしてそのことも夏目は素直に「嬉しい」と、思った。
「似てる、似てる」
のぞき込んで沙耶が言う。
「市川くんの愛情が溢れてるよね」
とも付け加えた。
そんな風に言われてしまって照れた市川が、
「あと、これもあげる」
と、更に差し出したのはi-pod。
「夏目、前から欲しいって言ってたでしょ?」
「うわー。マジで?やった。ありがとう」
「私からもあるよ」
次はナリコが差し出す。
「イチさん程の出来じゃないと思うけど」
そう断ってから、夏目を描いた絵を渡した。
市川を描いた時と同じような、モノクロの肖像画。
「うおー、スゲー。さすがプロ」
夏目にそう言われ安心する。頑張って描いた甲斐があった。
「これも愛情たっぷりの絵じゃない?」
沙耶がいいタイミングで言う。
「ね?市川くん」
その市川はと言えば、ナリコの絵を見てしきりに感心している。
「すごい、すごい。何、ナリコ?俺を描いた時よりかっこ良くない?」
と、まで言っているので、沙耶の立てた作戦は成功したようだ。
「へー。市川さんも描いてもらったんだ」
「そうなんだよ」
「でもやっぱ、俺の方がいい男だから、どうしてもかっこいい絵になっちゃうんじゃない?」
「うるさいなー…」
良かった。これで絵の問題はクリアだ。
「あと、私の描いた絵がTシャツになったから、それもあげる」
それはナリコの得意な人物画。
線画で描かれた女性のイラストがデザインされている。それを、黄色とカーキの色違いで二枚。
「サンキュ。お、かっこいいじゃん。早速着させてもらうよ」
そう言うと夏目はすぐにその場で黄色いTシャツに着替えた。
「どう?」
「似合う、似合う」
やっぱ夏目ちゃんはなんでも着こなしちゃうなぁ。
「私はふたりみたいに絵は描けないけど」
最後に沙耶がプレゼントを差し出す。
小さな箱。黒いペーパーに赤いリボン。大人っぽいラッピングが施されている。
「開けていい?」
「もちろんよ」
「なんだろ?」
丁寧に包みを開けていく夏目。
「絵ではないけど、一応手作りなんだよね」
「おぉっ。かっこいい」
それは皮にシルバーの金具がついたブレスレットだった。
「最近アクセサリーの教室に通い出したのよ。で、それが第一号なの」
早速腕にはめてみる夏目。
「スゲーッ。かっこいいじゃん。ありがとう。第一号なんてスゲーうれしいよ。これ、店にも着けていくよ」
どのプレゼントも相当気に入ったようだ。
「わー、嬉しいなー」
を繰り返しながら何度ももらったものを見返している。
「良かったね、夏目」
「うん。みんなありがとう。もう三十なんておもしろくないなぁ、とか思ってたけど、こんなに素敵なものをたくさんもらえるんなら、毎日が誕生日でもいいよ」
「えぇ?さすがにそれはイヤでしょ。大体毎日が誕生日だったらありがたみがなくなって、結局プレゼントは一個ももらえないんじゃない?」
「うっさいなー。市川さんはほんとに遊び心がないんだから」
「遊び心、あるよー」
相変わらずわあわあ言っているふたりを「ちょっと待って、ふたりとも。ちょっと聞いて」と、制して沙耶が言った。
「今日は、夏目くんの誕生日もそうなんだけど、もうひとつおめでたいことがあって。ね?ナリコ?」
ほら、早く、と、うながされてナリコが立ち上がる。
「こないだ私、イチさんの絵描かせてもらったじゃん?その…さっき言ってたやつ」
「う、うん」
ドギマギしながら市川が頷く。
「あの絵がコンペで入選しました」
それを聞いて、市川と夏目が、
「おぉーっ」
と、どよめく。
「おめでとうナリコ。あの絵、良かったもんね」
と、市川。
「ありがとう。イチさんのおかげだよ」
「おめでとう」
と、夏目。
「市川さんなんか描いて通ったんなら、俺を描いたこの絵は、もっといいとこ行くんじゃない?」
なんて言っている。
とにかく無事に夏目ちゃんの誕生日を祝えた。
私の気持ちも無事にバレずに。
沙耶にも手伝ってもらって市川の指定通り、しゃぶしゃぶの用意をした。
そして三人して、いつも通りに出勤して行った夏目の帰りを玄関先で待つ。
「ただいまー…」
いつものように玄関の扉を開けた夏目を、クラッカーを鳴らして盛大に出迎える。
「うわっ。びっくりしたっ」
「お誕生日おめでとうっ」
口々にそう叫びながら。
「うそー、なに?祝ってくれるの?ありがとう」
夏目は、ビックリしながらも嬉しそうだ。
「クラッカーとかベタだけど、なかなか嬉しいもんだね」
とかなんとか言っている。
「夏目ちゃん、今日は夏目ちゃんの好きなしゃぶしゃぶだよ」
と、ナリコ。
「うそー。マジで?ありがとう。嬉しいー。腹減ったー」
「バースデーケーキもあるのよ。ロウソクも歳の数だけ立てました」
と、沙耶。
「えー。サンキュ。三十本も立てるの大変だったでしょ?」
「プレゼントもあります。じゃーん」
と、市川。
「おぉ。ありがとう。開けてもいい?」
「いいよ」
きれいにラッピングされた包み紙を早速開けてみる。
「わぁ、なにこれ?市川さんが描いたの?スゲーじゃん」
市川が描いた絵は、やはり夏目への愛情が満ちており、そしてそのことも夏目は素直に「嬉しい」と、思った。
「似てる、似てる」
のぞき込んで沙耶が言う。
「市川くんの愛情が溢れてるよね」
とも付け加えた。
そんな風に言われてしまって照れた市川が、
「あと、これもあげる」
と、更に差し出したのはi-pod。
「夏目、前から欲しいって言ってたでしょ?」
「うわー。マジで?やった。ありがとう」
「私からもあるよ」
次はナリコが差し出す。
「イチさん程の出来じゃないと思うけど」
そう断ってから、夏目を描いた絵を渡した。
市川を描いた時と同じような、モノクロの肖像画。
「うおー、スゲー。さすがプロ」
夏目にそう言われ安心する。頑張って描いた甲斐があった。
「これも愛情たっぷりの絵じゃない?」
沙耶がいいタイミングで言う。
「ね?市川くん」
その市川はと言えば、ナリコの絵を見てしきりに感心している。
「すごい、すごい。何、ナリコ?俺を描いた時よりかっこ良くない?」
と、まで言っているので、沙耶の立てた作戦は成功したようだ。
「へー。市川さんも描いてもらったんだ」
「そうなんだよ」
「でもやっぱ、俺の方がいい男だから、どうしてもかっこいい絵になっちゃうんじゃない?」
「うるさいなー…」
良かった。これで絵の問題はクリアだ。
「あと、私の描いた絵がTシャツになったから、それもあげる」
それはナリコの得意な人物画。
線画で描かれた女性のイラストがデザインされている。それを、黄色とカーキの色違いで二枚。
「サンキュ。お、かっこいいじゃん。早速着させてもらうよ」
そう言うと夏目はすぐにその場で黄色いTシャツに着替えた。
「どう?」
「似合う、似合う」
やっぱ夏目ちゃんはなんでも着こなしちゃうなぁ。
「私はふたりみたいに絵は描けないけど」
最後に沙耶がプレゼントを差し出す。
小さな箱。黒いペーパーに赤いリボン。大人っぽいラッピングが施されている。
「開けていい?」
「もちろんよ」
「なんだろ?」
丁寧に包みを開けていく夏目。
「絵ではないけど、一応手作りなんだよね」
「おぉっ。かっこいい」
それは皮にシルバーの金具がついたブレスレットだった。
「最近アクセサリーの教室に通い出したのよ。で、それが第一号なの」
早速腕にはめてみる夏目。
「スゲーッ。かっこいいじゃん。ありがとう。第一号なんてスゲーうれしいよ。これ、店にも着けていくよ」
どのプレゼントも相当気に入ったようだ。
「わー、嬉しいなー」
を繰り返しながら何度ももらったものを見返している。
「良かったね、夏目」
「うん。みんなありがとう。もう三十なんておもしろくないなぁ、とか思ってたけど、こんなに素敵なものをたくさんもらえるんなら、毎日が誕生日でもいいよ」
「えぇ?さすがにそれはイヤでしょ。大体毎日が誕生日だったらありがたみがなくなって、結局プレゼントは一個ももらえないんじゃない?」
「うっさいなー。市川さんはほんとに遊び心がないんだから」
「遊び心、あるよー」
相変わらずわあわあ言っているふたりを「ちょっと待って、ふたりとも。ちょっと聞いて」と、制して沙耶が言った。
「今日は、夏目くんの誕生日もそうなんだけど、もうひとつおめでたいことがあって。ね?ナリコ?」
ほら、早く、と、うながされてナリコが立ち上がる。
「こないだ私、イチさんの絵描かせてもらったじゃん?その…さっき言ってたやつ」
「う、うん」
ドギマギしながら市川が頷く。
「あの絵がコンペで入選しました」
それを聞いて、市川と夏目が、
「おぉーっ」
と、どよめく。
「おめでとうナリコ。あの絵、良かったもんね」
と、市川。
「ありがとう。イチさんのおかげだよ」
「おめでとう」
と、夏目。
「市川さんなんか描いて通ったんなら、俺を描いたこの絵は、もっといいとこ行くんじゃない?」
なんて言っている。
とにかく無事に夏目ちゃんの誕生日を祝えた。
私の気持ちも無事にバレずに。
2008.09.12 Friday
17
掲載誌が届いた。
ナリコの入選作が載った号だ。
沙耶が応募した時、タイトルは「私の好きな人」と、なっていたが、そこは急遽編集部にお願いして「同居人」に、変えてもらった。味気ないタイトルになってしまったかもしれないがそれは仕方がないだろう。
これで、大丈夫。
夏目に見られても大丈夫。
ナリコはそれで安心しきっていたのだが、いざ掲載誌を見て青ざめた。
各入選者の絵には選者のコメントがそれぞれ寄せられているのだが、ナリコの評に、
「この男性は作者の恋人であろうか?とにかく、この絵には作者の、描く対象であるこの男性への想いがひしひしと感じられ、私はそこに感銘を受けた」
と、いう一文があったのだ。
本当なら最高の褒め言葉なのだが、これを夏目に見られるとなると話は別だ。
「沙耶ちゃん、どう思う?」
いつものようにいつものカフェで沙耶に相談をする。
今日はランチメニュー。沙耶は生姜焼きプレート、ナリコはエビチリプレートをオーダーした。
「いや、大丈夫なんじゃない?」
前菜のサラダをフォークでつつきながら、沙耶はいたって冷静に構えている。
「だってナリコがこないだ夏目くんにあげた絵、あれ、かなり愛情に溢れて見えたもん」
「ほんと?」
ナリコはカボチャの冷製スープを飲む手を止めて聞き返した。
「ほんとだよー。ナリコ、あんたまさか、次は夏目くんに恋した、とか言い出したりしないわよね?」
「言わないよ。そんなわけないじゃん」
「ならいいけど。でもそれくらいあの絵、よく描けてたから大丈夫だと思うんだけどな」
「沙耶ちゃんがそう言うなら…」
それで安心して市川と夏目に掲載誌を見せたのに、やっぱりふたりはそのコメントを見て固まっていた。
夏目には、
「ナリコって、市川さんのことが好きなの?」
なんてストレートに聞かれてしまう。
「そんなワケないじゃん。っていうか、私、夏目ちゃんのことも好きだし。ふたりともが同じ位に好きだよ」
「ふーん」
うまく誤魔化せているんだろうか?
その間市川は黙り込んでいる。
「こないだ夏目ちゃんにあげた絵。あれを送っててもやっぱりそのコメントになったと思うよ」
ドキドキして饒舌になってしまう。
もう、ヤダ。
イチさんに恋した私のバカ。
しかし、
「そっか。そうだよね。それどころかモデルが良い分、もっと褒められてたと思うよ」
いつものように笑って夏目がそう言ってくれたので安心する。
…依然として市川は固まったままだが。
だからナリコは言ってしまう。
「なにイチさん固まってんの?もしかして、私がイチさんのこと好きかもって、自惚れてんの?」
「ちがっ。違うよ。俺がモデルになった絵が全国誌に載って、緊張してんのっ」
そんな風に慌てている市川に、夏目がいつものように冷たい視線を投げかける。
「大丈夫だよ、市川さん。だって、本物の市川さんはこんなにかっこよくないし、誰もこれが市川さんだなんて分かんないよ」
「もうっ。うるさいっ」
良かった。いつものやりとりだ。
気を付けよう。私、結構イチさんへの想いが溢れ出してるみたいだから。
ナリコの入選作が載った号だ。
沙耶が応募した時、タイトルは「私の好きな人」と、なっていたが、そこは急遽編集部にお願いして「同居人」に、変えてもらった。味気ないタイトルになってしまったかもしれないがそれは仕方がないだろう。
これで、大丈夫。
夏目に見られても大丈夫。
ナリコはそれで安心しきっていたのだが、いざ掲載誌を見て青ざめた。
各入選者の絵には選者のコメントがそれぞれ寄せられているのだが、ナリコの評に、
「この男性は作者の恋人であろうか?とにかく、この絵には作者の、描く対象であるこの男性への想いがひしひしと感じられ、私はそこに感銘を受けた」
と、いう一文があったのだ。
本当なら最高の褒め言葉なのだが、これを夏目に見られるとなると話は別だ。
「沙耶ちゃん、どう思う?」
いつものようにいつものカフェで沙耶に相談をする。
今日はランチメニュー。沙耶は生姜焼きプレート、ナリコはエビチリプレートをオーダーした。
「いや、大丈夫なんじゃない?」
前菜のサラダをフォークでつつきながら、沙耶はいたって冷静に構えている。
「だってナリコがこないだ夏目くんにあげた絵、あれ、かなり愛情に溢れて見えたもん」
「ほんと?」
ナリコはカボチャの冷製スープを飲む手を止めて聞き返した。
「ほんとだよー。ナリコ、あんたまさか、次は夏目くんに恋した、とか言い出したりしないわよね?」
「言わないよ。そんなわけないじゃん」
「ならいいけど。でもそれくらいあの絵、よく描けてたから大丈夫だと思うんだけどな」
「沙耶ちゃんがそう言うなら…」
それで安心して市川と夏目に掲載誌を見せたのに、やっぱりふたりはそのコメントを見て固まっていた。
夏目には、
「ナリコって、市川さんのことが好きなの?」
なんてストレートに聞かれてしまう。
「そんなワケないじゃん。っていうか、私、夏目ちゃんのことも好きだし。ふたりともが同じ位に好きだよ」
「ふーん」
うまく誤魔化せているんだろうか?
その間市川は黙り込んでいる。
「こないだ夏目ちゃんにあげた絵。あれを送っててもやっぱりそのコメントになったと思うよ」
ドキドキして饒舌になってしまう。
もう、ヤダ。
イチさんに恋した私のバカ。
しかし、
「そっか。そうだよね。それどころかモデルが良い分、もっと褒められてたと思うよ」
いつものように笑って夏目がそう言ってくれたので安心する。
…依然として市川は固まったままだが。
だからナリコは言ってしまう。
「なにイチさん固まってんの?もしかして、私がイチさんのこと好きかもって、自惚れてんの?」
「ちがっ。違うよ。俺がモデルになった絵が全国誌に載って、緊張してんのっ」
そんな風に慌てている市川に、夏目がいつものように冷たい視線を投げかける。
「大丈夫だよ、市川さん。だって、本物の市川さんはこんなにかっこよくないし、誰もこれが市川さんだなんて分かんないよ」
「もうっ。うるさいっ」
良かった。いつものやりとりだ。
気を付けよう。私、結構イチさんへの想いが溢れ出してるみたいだから。
2008.09.12 Friday
18
市川と夏目と、三人揃って楽しく晩ご飯も食べて、順番にお風呂にも入って、
「じゃあ、私、二階で仕事の続きしてくるね」
そう言ってひらひらと手を振りながら階段を上り、部屋に籠もって仕事を再開して約二時間後。
キリのいいところでペンを置き、すっかり冷めてしまったコーヒーをすすりながら一息ついていると一階から、
「夏目のバカッ」
と、市川が叫ぶ声が聞こえた。
あーあ、また痴話喧嘩?ほんっとに仲いいんだから、あのふたりは。
最初はそんな風に「いつものことだ」と聞き流していたナリコだったけれど、滅多に大声なんて出さない夏目の、
「ちょっと待って、市川さんっ」
と、叫ぶ声が聞こえたのと、バタンッと、玄関の扉が荒々しく閉まるのを聞いて、
「夏目ちゃん?どうしたの?」
慌てて一階に降りてきた。
「イチさんは?」
そうたずねながら何気なく夏目の腕に触れようとした手を、
「なんでもないよっ」
ばっと払われ、怒鳴られ、更にキツく睨まれて、ひるむ。
ナリコは振り払われた自分の手をぎゅっと押さえた。
「ごめん…夏目ちゃん…」
恋人同士のやりとりに出過ぎたまねをしてしまった…。そう思うと自分の不甲斐なさに涙が滲みそうになる。
強く自分の手を押さえ、涙をこらえて小さく震えるナリコを見て、夏目ははっと我に返った。
「ナリコ…俺…ごめん…」
そう言ってナリコの手を取り、やさしく撫でてくれるが、うつむいたままでナリコとは目を合わせない。
「何があったの…?」
鼻をすすって夏目の顔をのぞき込みながらもう一度聞いてみたが夏目は、
「ごめん。ちょっと…言いたくない…」
寂しそうな顔をしただけだった。
「イチさんなら大丈夫だよ…だって…イチさんなんだもん」
自分自身に言い聞かせるように笑顔で夏目をそう励ましたが、黙って頷いた夏目の心が全く落ち着きを取り戻していないのは明らかだった。
その細い身体はいつにも増して頼りなさげで、呆然と玄関に立ちつくしたまま、そこから立ち去ろうともしない。心もここにない感じ。
「夏目ちゃん、コーヒー飲もう。おいしいの、淹れたげる」
どうしようもなくて、とりあえずそう言ってみる。
そして夏目を促し、ダイニングテーブルに座らせた。
夏目は、一応席にはついたが、テーブルの上に置いて軽く握られた自分の右手をじっと見つめたままで黙り込んでいる。
こういう時、どう声を掛ければいいのかナリコには分からない。
夏目の長めの前髪と、黒い眼鏡の縁が邪魔をして表情が読めない。
今はとにかくおいしいコーヒーを淹れたいと思った。
いつもは三人分なのに、今は二人分なのが悲しい。
「夏目ちゃんのお気に入りはモカ」
まだ封を切っていないコーヒーパックにハサミを入れる。その瞬間、いい香りが広がって、ナリコはちょっと救われた思いがした。
お湯を沸かし、ドリップする。
コーヒーがすべてドリップされる前にイチさんが帰ってくればいいのに。
そしたら、
「もう、イチさん遅い。イチさんの分ないよ?またイチさんの分、淹れなきゃいけないじゃない。お湯、早く沸かしてよね」
なんていつもの調子で軽口を叩けるのに。
しかしその願いも虚しく、市川が戻らない内にあっさり二人分をドリップし終えた。
「どうぞ」
夏目の前にカップを置き、ナリコも横に腰掛ける。
「ありがとう」
そう言い夏目はナリコを見上げたが、その瞳に色はなかった。
重苦しい空気の中、隣り合って黙ったままコーヒーを飲み干してしまった。
「おかわりは?」
「ううん。いい。ありがとう」
沈黙を持て余したナリコはカップをふたつ掴んでゆっくり立ち上がり、流しに向かった。
二人分のコーヒーカップなんてあっという間に洗い終わってしまって、また夏目の横に戻るしかなかった。
「イチさん、遅いね」
「うん」
その後もずっと、ふたりの間を沈黙だけが包んでいる。
夏目ちゃん、ひとりになりたいのかな。
「じゃあ私、二階に行ってるね」
そう言って立ち上がろうとするナリコの腕を夏目が掴んだ。
「ごめん…ナリコ」
「夏目ちゃん…」
何があったかは分からないけれど、とにかくふたりを会わせなきゃ。
「イチさんのこと、探しに行く?」
そう聞くと夏目は大人しく頷いた。
「イチさん、携帯は?」
「置いてった」
玄関へ向かい靴を履き、外に出る。
湿度を重く含んだ初夏の空気が肌にまとわりつく。
そのことが更にふたりの気持ちを暗くさせた。
「イチさん、どこに行ったんだろう?」
私がイチさんなら…とナリコは考える。
私がイチさんなら、そんな遠くに行かない気がする。感情にまかせて飛び出したものの、やっぱり探し出して欲しくって、そんな遠くに行かないと思う。
前に一度、遅くまで沙耶と飲んで一人で家に帰る途中、公園にぽつりと座る市川を見かけたことがある。
なんだか焦点の定まらない視線を遠くに投げながら、無表情でベンチに腰掛けていた市川を、薄暗い街灯が照らしていた。
いつもはなんとなく笑っているか、夏目におちょくられては顔をしかめている市川が初めて見せる無表情に、ナリコは声を掛けられなかった。
「何かあったのかな…」
そんな心配はしたが市川の無表情は全てを拒んでいるように見えて、やはり声は掛けられなかった。
でも、その日ナリコより少し遅れて、
「ただいまー」
と、笑顔で家に帰ってきた市川は、至極いつも通りの市川だったし、相変わらず夏目にバカにされては、
「やめろよー」
などと顔をしかめて笑っていた。
さっきの声を掛けがたい雰囲気は、ただ単に気のせいだったのかもしれないな、と思えるほど、そこにはいつも通りの市川がいた。
後日、何かの拍子に市川とふたりになった時があり、
「あのさ。こないだ私、イチさんが公園にいたの見かけたんだけどさ…」
と、ナリコは切り出してみた。
「イチさん、あんなとこで何してたの?」
と。
「見かけたんなら声掛けてよ」
市川は、少し驚いた顔をしたものの、すぐに笑った顔でいつものように言ってくる。
しかし、
「でもイチさん、凄く遠い目しててさ…」
と、言うと、ちょっとバツの悪そうな顔になった。
「えー、あぁ…。ちょっと学校のことでさ…考え事があったんだよね」
ナリコは、そんな風に疲れた笑顔を返して来る市川を初めて見た。
「すこし…ひとりになりたかったんだよね」
そう言って、あの日見たような遠い目で笑う市川を。
「夏目にはこのこと絶対に言わないでよ。『ひとりになりたかった』なんて言うと『じゃあ俺、出ていってやろうか?』だとかなんとか、すーぐそういう意地悪言うんだから」
「夏目ちゃん、こっち」
ナリコが行こうとしている方向とは逆へ向かいかける夏目を制し、早足で夏目の前をゆく。
「わかんないけど…もしかしたら…」
独り言のように呟きながら先を行くナリコの後を黙ったまま、遅れないように夏目がついて行く。
しばらくしたところでふいに夏目が尋ねてきた。
「ナリコ、今…好きな人いる?」
と。
「えぇ?」
びっくりした。こんな時に一体、夏目ちゃんは何を言いたいのだろう。
「えー。何、唐突に」
ふいを突かれたことにどきりとした後、そう笑って誤魔化そうとするが夏目は、
「ねぇ、いる?」
と、ナリコの腕を掴み、足を止めさせ、真剣な眼差しで更にそう聞いてくる。
この暗さの中とはいえ、自分の目をまっすぐ見据えた黒目がちのこの目に、簡単に心の中が見透かされそうで怖くなる。
もしかしてイチさんのことを言ってるのかな…。
夏目の真意がどこにあるにせよ、今はこう言うしかない。
「夏目ちゃんも知っての通り、前の彼氏にふられてから出会いなんてなかったからね、好きな人なんているはずもないけど…なんで?」
ちょっと笑顔が引きつったかもしれないが、この暗がりの中ならそのことには気付かれなかっただろう。
ここで夏目に、市川への想いを告白できるわけがない。
「ほんとのほんと?」
「ほんとのほんと。誰か紹介して欲しいくらいよ?」
「…分かった。それなら別にいい」
その時、安堵の色が一瞬夏目の目に浮かんだような気がするが、それもこの暗さでのこと。決して、そうだとは断定できない。
「行こう、夏目ちゃん」
夏目の手をとり、先を急ぐ。
「うん」
それに夏目も素直に応える。
今はとにかく市川と夏目を会わせないと。
程なくして、以前ナリコが市川を見掛けた公園に着いた。
そこにはあの日と同じように、同じ場所に、当然あるべき市川の姿。
ただあの日と違うのは、今の市川は遠い視線を投げることすらしないで膝と膝の間で組んだ指に額を当ててがっくりとうなだれていることだ。
「夏目ちゃん」
先に市川に気付いたナリコが夏目を振り向き、その存在を視線で知らせる。
「え?何?」
立ち止まってナリコの視線の先を追い、探し求めていた恋人の姿を認めた夏目は一瞬はっとした表情の後、
「いちかわっ」
と、叫び、繋いでいたナリコの手をほどいてひゅんっと市川のもとへ駆けて行った。
その先にいる市川は、ふいに名前を呼ばれたことに驚いて顔を上げ、そしてそれが夏目だと気付くと更に目をまるく見開き、駆け寄ってくる夏目をただただ何も言わずに見続けていた。
夏目は、唖然としてベンチに座る市川の少し手前で走るのをやめ、息を整えながらゆっくりと、驚いたままのその恋人に近づいて行く。
バター色の月から降る優しい光がふたりを照らす。
「私の出番はここまでだ」
ナリコはひとり、もと来た道を帰っていった。
「じゃあ、私、二階で仕事の続きしてくるね」
そう言ってひらひらと手を振りながら階段を上り、部屋に籠もって仕事を再開して約二時間後。
キリのいいところでペンを置き、すっかり冷めてしまったコーヒーをすすりながら一息ついていると一階から、
「夏目のバカッ」
と、市川が叫ぶ声が聞こえた。
あーあ、また痴話喧嘩?ほんっとに仲いいんだから、あのふたりは。
最初はそんな風に「いつものことだ」と聞き流していたナリコだったけれど、滅多に大声なんて出さない夏目の、
「ちょっと待って、市川さんっ」
と、叫ぶ声が聞こえたのと、バタンッと、玄関の扉が荒々しく閉まるのを聞いて、
「夏目ちゃん?どうしたの?」
慌てて一階に降りてきた。
「イチさんは?」
そうたずねながら何気なく夏目の腕に触れようとした手を、
「なんでもないよっ」
ばっと払われ、怒鳴られ、更にキツく睨まれて、ひるむ。
ナリコは振り払われた自分の手をぎゅっと押さえた。
「ごめん…夏目ちゃん…」
恋人同士のやりとりに出過ぎたまねをしてしまった…。そう思うと自分の不甲斐なさに涙が滲みそうになる。
強く自分の手を押さえ、涙をこらえて小さく震えるナリコを見て、夏目ははっと我に返った。
「ナリコ…俺…ごめん…」
そう言ってナリコの手を取り、やさしく撫でてくれるが、うつむいたままでナリコとは目を合わせない。
「何があったの…?」
鼻をすすって夏目の顔をのぞき込みながらもう一度聞いてみたが夏目は、
「ごめん。ちょっと…言いたくない…」
寂しそうな顔をしただけだった。
「イチさんなら大丈夫だよ…だって…イチさんなんだもん」
自分自身に言い聞かせるように笑顔で夏目をそう励ましたが、黙って頷いた夏目の心が全く落ち着きを取り戻していないのは明らかだった。
その細い身体はいつにも増して頼りなさげで、呆然と玄関に立ちつくしたまま、そこから立ち去ろうともしない。心もここにない感じ。
「夏目ちゃん、コーヒー飲もう。おいしいの、淹れたげる」
どうしようもなくて、とりあえずそう言ってみる。
そして夏目を促し、ダイニングテーブルに座らせた。
夏目は、一応席にはついたが、テーブルの上に置いて軽く握られた自分の右手をじっと見つめたままで黙り込んでいる。
こういう時、どう声を掛ければいいのかナリコには分からない。
夏目の長めの前髪と、黒い眼鏡の縁が邪魔をして表情が読めない。
今はとにかくおいしいコーヒーを淹れたいと思った。
いつもは三人分なのに、今は二人分なのが悲しい。
「夏目ちゃんのお気に入りはモカ」
まだ封を切っていないコーヒーパックにハサミを入れる。その瞬間、いい香りが広がって、ナリコはちょっと救われた思いがした。
お湯を沸かし、ドリップする。
コーヒーがすべてドリップされる前にイチさんが帰ってくればいいのに。
そしたら、
「もう、イチさん遅い。イチさんの分ないよ?またイチさんの分、淹れなきゃいけないじゃない。お湯、早く沸かしてよね」
なんていつもの調子で軽口を叩けるのに。
しかしその願いも虚しく、市川が戻らない内にあっさり二人分をドリップし終えた。
「どうぞ」
夏目の前にカップを置き、ナリコも横に腰掛ける。
「ありがとう」
そう言い夏目はナリコを見上げたが、その瞳に色はなかった。
重苦しい空気の中、隣り合って黙ったままコーヒーを飲み干してしまった。
「おかわりは?」
「ううん。いい。ありがとう」
沈黙を持て余したナリコはカップをふたつ掴んでゆっくり立ち上がり、流しに向かった。
二人分のコーヒーカップなんてあっという間に洗い終わってしまって、また夏目の横に戻るしかなかった。
「イチさん、遅いね」
「うん」
その後もずっと、ふたりの間を沈黙だけが包んでいる。
夏目ちゃん、ひとりになりたいのかな。
「じゃあ私、二階に行ってるね」
そう言って立ち上がろうとするナリコの腕を夏目が掴んだ。
「ごめん…ナリコ」
「夏目ちゃん…」
何があったかは分からないけれど、とにかくふたりを会わせなきゃ。
「イチさんのこと、探しに行く?」
そう聞くと夏目は大人しく頷いた。
「イチさん、携帯は?」
「置いてった」
玄関へ向かい靴を履き、外に出る。
湿度を重く含んだ初夏の空気が肌にまとわりつく。
そのことが更にふたりの気持ちを暗くさせた。
「イチさん、どこに行ったんだろう?」
私がイチさんなら…とナリコは考える。
私がイチさんなら、そんな遠くに行かない気がする。感情にまかせて飛び出したものの、やっぱり探し出して欲しくって、そんな遠くに行かないと思う。
前に一度、遅くまで沙耶と飲んで一人で家に帰る途中、公園にぽつりと座る市川を見かけたことがある。
なんだか焦点の定まらない視線を遠くに投げながら、無表情でベンチに腰掛けていた市川を、薄暗い街灯が照らしていた。
いつもはなんとなく笑っているか、夏目におちょくられては顔をしかめている市川が初めて見せる無表情に、ナリコは声を掛けられなかった。
「何かあったのかな…」
そんな心配はしたが市川の無表情は全てを拒んでいるように見えて、やはり声は掛けられなかった。
でも、その日ナリコより少し遅れて、
「ただいまー」
と、笑顔で家に帰ってきた市川は、至極いつも通りの市川だったし、相変わらず夏目にバカにされては、
「やめろよー」
などと顔をしかめて笑っていた。
さっきの声を掛けがたい雰囲気は、ただ単に気のせいだったのかもしれないな、と思えるほど、そこにはいつも通りの市川がいた。
後日、何かの拍子に市川とふたりになった時があり、
「あのさ。こないだ私、イチさんが公園にいたの見かけたんだけどさ…」
と、ナリコは切り出してみた。
「イチさん、あんなとこで何してたの?」
と。
「見かけたんなら声掛けてよ」
市川は、少し驚いた顔をしたものの、すぐに笑った顔でいつものように言ってくる。
しかし、
「でもイチさん、凄く遠い目しててさ…」
と、言うと、ちょっとバツの悪そうな顔になった。
「えー、あぁ…。ちょっと学校のことでさ…考え事があったんだよね」
ナリコは、そんな風に疲れた笑顔を返して来る市川を初めて見た。
「すこし…ひとりになりたかったんだよね」
そう言って、あの日見たような遠い目で笑う市川を。
「夏目にはこのこと絶対に言わないでよ。『ひとりになりたかった』なんて言うと『じゃあ俺、出ていってやろうか?』だとかなんとか、すーぐそういう意地悪言うんだから」
「夏目ちゃん、こっち」
ナリコが行こうとしている方向とは逆へ向かいかける夏目を制し、早足で夏目の前をゆく。
「わかんないけど…もしかしたら…」
独り言のように呟きながら先を行くナリコの後を黙ったまま、遅れないように夏目がついて行く。
しばらくしたところでふいに夏目が尋ねてきた。
「ナリコ、今…好きな人いる?」
と。
「えぇ?」
びっくりした。こんな時に一体、夏目ちゃんは何を言いたいのだろう。
「えー。何、唐突に」
ふいを突かれたことにどきりとした後、そう笑って誤魔化そうとするが夏目は、
「ねぇ、いる?」
と、ナリコの腕を掴み、足を止めさせ、真剣な眼差しで更にそう聞いてくる。
この暗さの中とはいえ、自分の目をまっすぐ見据えた黒目がちのこの目に、簡単に心の中が見透かされそうで怖くなる。
もしかしてイチさんのことを言ってるのかな…。
夏目の真意がどこにあるにせよ、今はこう言うしかない。
「夏目ちゃんも知っての通り、前の彼氏にふられてから出会いなんてなかったからね、好きな人なんているはずもないけど…なんで?」
ちょっと笑顔が引きつったかもしれないが、この暗がりの中ならそのことには気付かれなかっただろう。
ここで夏目に、市川への想いを告白できるわけがない。
「ほんとのほんと?」
「ほんとのほんと。誰か紹介して欲しいくらいよ?」
「…分かった。それなら別にいい」
その時、安堵の色が一瞬夏目の目に浮かんだような気がするが、それもこの暗さでのこと。決して、そうだとは断定できない。
「行こう、夏目ちゃん」
夏目の手をとり、先を急ぐ。
「うん」
それに夏目も素直に応える。
今はとにかく市川と夏目を会わせないと。
程なくして、以前ナリコが市川を見掛けた公園に着いた。
そこにはあの日と同じように、同じ場所に、当然あるべき市川の姿。
ただあの日と違うのは、今の市川は遠い視線を投げることすらしないで膝と膝の間で組んだ指に額を当ててがっくりとうなだれていることだ。
「夏目ちゃん」
先に市川に気付いたナリコが夏目を振り向き、その存在を視線で知らせる。
「え?何?」
立ち止まってナリコの視線の先を追い、探し求めていた恋人の姿を認めた夏目は一瞬はっとした表情の後、
「いちかわっ」
と、叫び、繋いでいたナリコの手をほどいてひゅんっと市川のもとへ駆けて行った。
その先にいる市川は、ふいに名前を呼ばれたことに驚いて顔を上げ、そしてそれが夏目だと気付くと更に目をまるく見開き、駆け寄ってくる夏目をただただ何も言わずに見続けていた。
夏目は、唖然としてベンチに座る市川の少し手前で走るのをやめ、息を整えながらゆっくりと、驚いたままのその恋人に近づいて行く。
バター色の月から降る優しい光がふたりを照らす。
「私の出番はここまでだ」
ナリコはひとり、もと来た道を帰っていった。
2008.09.12 Friday
19
その日ふたりは帰って来なかった。
ナリコは眠れない夜を過ごした。
ふたりに何があったかは分からないが夏目のあの態度。
やっぱり私の、イチさんへの想いを疑ってる?
そう思っては『考えすぎだ』と思い、『考えすぎだ』と思っては『でも』と、思う。そんなことを繰り返していた。
考え疲れてようやく明け方眠りについて、次に起きるともう日は高かった。
階下に降りると、ふたりが一旦家に帰ってきてからそれぞれ仕事に出掛けた形跡があった。
飲みかけのミルクが無造作に流しにおいてある。
心乱れても、仕事は待ってはくれない。
それは市川にとっても、夏目にとっても、ナリコにとっても同じこと。
絵が入選したことでこんなにも心乱れることにはなったが、絵が入選したことで仕事の依頼は確実に増え、それで、心乱れている暇はなかった。
そしてナリコもペンを持ち、仕事机に向かった。
ナリコは眠れない夜を過ごした。
ふたりに何があったかは分からないが夏目のあの態度。
やっぱり私の、イチさんへの想いを疑ってる?
そう思っては『考えすぎだ』と思い、『考えすぎだ』と思っては『でも』と、思う。そんなことを繰り返していた。
考え疲れてようやく明け方眠りについて、次に起きるともう日は高かった。
階下に降りると、ふたりが一旦家に帰ってきてからそれぞれ仕事に出掛けた形跡があった。
飲みかけのミルクが無造作に流しにおいてある。
心乱れても、仕事は待ってはくれない。
それは市川にとっても、夏目にとっても、ナリコにとっても同じこと。
絵が入選したことでこんなにも心乱れることにはなったが、絵が入選したことで仕事の依頼は確実に増え、それで、心乱れている暇はなかった。
そしてナリコもペンを持ち、仕事机に向かった。
2008.09.12 Friday
20
その日、夏目より先に帰ってきた市川に、
「ごめんね」
と、謝られてしまった。
夏目の帰宅を待たずにふたりで先に晩ご飯を食べていた時。
今日はシンプルなものが食べたかったので、肉じゃがと鮭の切り身、インゲン豆のゴマ和えと、キャベツのお味噌汁にした。
「え?なんで?」
と、ナリコは問う。
「だって、なんか、俺らのことにナリコを巻き込んじゃって」
「やだ、なに言ってんの?全然気にする事じゃないよ?」
そう言って努めて明るく笑う。
「で、ちゃんと仲直りできたの?」
「うん。それは、お陰様で」
「そう。よかった」
「ほんと…ごめんね」
こちらこそ、ごめんね、だ。
ナリコは心の中で市川に詫びた。
私がイチさんのことを好きになって、それでそのことがふたりの間をかき乱したんじゃないか?と、思っているから。
私の気持ちは益々封印しなくちゃいけない。
イチさんと夏目ちゃんを傷つけたくない。
晩ご飯を食べ終えて、二階で仕事をしていると夏目が帰ってきた。
「ナリコー。ただいま」
珍しく夏目がナリコの部屋を尋ねてきた。
「あ、夏目ちゃん髪切ったんだ?」
肩まであった髪がマッシュになってる。
「うん。今日沙耶ちゃんとお茶してたんだ。で、話してる内に髪切ってもらうことになって、そのまま沙耶ちゃんのお店で切ってもらっちゃった」
気分転換だよ、と、笑いながら髪の先をつまんで見せる。
「どう?似合う?」
「うん、似合うよ。ますますお洒落な感じになったね」
「ホント?サンキュ」
「イチさんはなんて?」
「あー、前の長かった方がいいって言ってた。市川さん、ロリコンだから長い黒髪が好きなんじゃない?」
「あはは。ロリコンだから?」
そう言ってふたりで笑い合う。
よかった…。いつも通りに振る舞える。
今は取り敢えず、このまま普段通りに過ごせるようにしよう。
そんなナリコの想いを見透かしたりなどせず、夏目がふいに頭を下げてきた。
切ったばかりの髪がさらりと揺れて、美容室帰り独特のにおいが流れてくる。
「ナリコ、昨日はごめんね」
しゅんとした静かな声で夏目が謝ってくる。
「そんな。とんでもない。仲直りできて良かったね」
偽善者…。自分に向かって心の中で呟くと、自己嫌悪がナリコの身体を駆け抜けた。
「ありがとう」
そんなことは知らない夏目が素直に礼を言う。
夏目ちゃん、ごめんね。
これから私たち、どうなって行くのかな?
このままでいたいっていうのは到底無理な願いなのかな?
「ごめんね」
と、謝られてしまった。
夏目の帰宅を待たずにふたりで先に晩ご飯を食べていた時。
今日はシンプルなものが食べたかったので、肉じゃがと鮭の切り身、インゲン豆のゴマ和えと、キャベツのお味噌汁にした。
「え?なんで?」
と、ナリコは問う。
「だって、なんか、俺らのことにナリコを巻き込んじゃって」
「やだ、なに言ってんの?全然気にする事じゃないよ?」
そう言って努めて明るく笑う。
「で、ちゃんと仲直りできたの?」
「うん。それは、お陰様で」
「そう。よかった」
「ほんと…ごめんね」
こちらこそ、ごめんね、だ。
ナリコは心の中で市川に詫びた。
私がイチさんのことを好きになって、それでそのことがふたりの間をかき乱したんじゃないか?と、思っているから。
私の気持ちは益々封印しなくちゃいけない。
イチさんと夏目ちゃんを傷つけたくない。
晩ご飯を食べ終えて、二階で仕事をしていると夏目が帰ってきた。
「ナリコー。ただいま」
珍しく夏目がナリコの部屋を尋ねてきた。
「あ、夏目ちゃん髪切ったんだ?」
肩まであった髪がマッシュになってる。
「うん。今日沙耶ちゃんとお茶してたんだ。で、話してる内に髪切ってもらうことになって、そのまま沙耶ちゃんのお店で切ってもらっちゃった」
気分転換だよ、と、笑いながら髪の先をつまんで見せる。
「どう?似合う?」
「うん、似合うよ。ますますお洒落な感じになったね」
「ホント?サンキュ」
「イチさんはなんて?」
「あー、前の長かった方がいいって言ってた。市川さん、ロリコンだから長い黒髪が好きなんじゃない?」
「あはは。ロリコンだから?」
そう言ってふたりで笑い合う。
よかった…。いつも通りに振る舞える。
今は取り敢えず、このまま普段通りに過ごせるようにしよう。
そんなナリコの想いを見透かしたりなどせず、夏目がふいに頭を下げてきた。
切ったばかりの髪がさらりと揺れて、美容室帰り独特のにおいが流れてくる。
「ナリコ、昨日はごめんね」
しゅんとした静かな声で夏目が謝ってくる。
「そんな。とんでもない。仲直りできて良かったね」
偽善者…。自分に向かって心の中で呟くと、自己嫌悪がナリコの身体を駆け抜けた。
「ありがとう」
そんなことは知らない夏目が素直に礼を言う。
夏目ちゃん、ごめんね。
これから私たち、どうなって行くのかな?
このままでいたいっていうのは到底無理な願いなのかな?