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    「ちょっとナリコ。何言い出すかと思ったら。もう。本気じゃないよね」
     自分でもなんて言えばいいかわかんなくて、冗談なら冗談にしようと思ってそんなことを言ってみた。
     ついでに、誤魔化せるんなら誤魔化したくて「へへっ」と笑ってみたけど、目に涙をいっぱい溜めながらキッとナリコが睨んでくる。
     ふぅーっとまたひとつため息をついた後、唇を真一文字に硬く結び顔を上げ、まっすぐ市川の目を見る。また新たにこぼれ始めた涙を拭いもしないでそのままに。
     本気じゃなかったら泣くわけないじゃん、と、でも言いたげに。
    「…」
    「…」
    「えー」
     ヤバイ。ナリコったら本気でした。
    「どう…しよう?イチさん」
     この状況をどうするの?
    「イチさん…」
     ちょっと、ちょっと。俺に委ねる感じ?
    「うーん」
    「イチさん?」
    「うーん…」
     今なら夏目ちゃんの気持ちがよく分かる。
     普段から再三イチさんのことを、「だらしないなぁ」と言っていた夏目ちゃんの気持ちが。
     でも、決めてよイチさんが。
     こんな私をどうするのか。
    「イチさんが決めてくれたらそれがいい」
     んー…。そう言われても…。参ったな。
    「ずるい言い方してごめん。でも、私はイチさんが決めたことを正解にしたい」
    「…」
     イチさん、悩んでる。そりゃそうだよね。ごめんね。
    「…」
    「…」
     そしてしばらくの沈黙の後、
    「…ナリコ」
     至極静かに市川が口を開いた。
    「はい」
     どうするの?イチさん。
     どうするんだろう?俺。
    「ちょっとこっち来て」
     吹っ切れたような真面目な顔を一瞬作って市川は、自分の膝をぽんぽんと叩いてナリコにこちら側に来るよう促した。
     もう、今この瞬間が夢なのか、現実なのかが分からない。
     熱のせいもあるかもしれないけれど、困窮の末黙り込んでいるふたりを中心に、この部屋の空気がものすごい早さでぐるぐると回っているように感じる。同時にその外側で、ものすごくゆっくり回っている空気も感じる。
     自分を呼ぶ市川の長い指を見つめながら、とにかくその空気の流れに任せてみよう、とナリコはぼんやり決断した。イチさんのすることが私にとっての正解だって決めたから。
     ついさっき市川が優しくかけてくれた布団からするすると這い出し、言われるまま膝に足をかける。知らない間に嗅ぎ慣れていた市川の香水の香りがナリコの鼻をかすめた。
     シトラス系でありながらもどこか甘さを感じさせるこの不思議な香り。この独特の香りが、ここにいるのは紛れもなく市川だということを強く示してきて、そしてその現実にナリコは改めてきちんとめまいを起こしそうになる。それで、なんとなく市川の腕に手を添えてみた。
     市川は、自らがナリコを呼んでおきながら、いざ触れられるとピクッと動揺してしまった。
     俺、なにをしようとしてるんだろう?
     でも…多分、決めたから。
     気持ちを落ち着かせ、少しためらってから「うん」と声に出して頷き、市川がナリコの両肩を掴む。そしてスローモーションのようなゆるやかさでナリコに口づける。
     初めはぎこちなく、お互い身を固くしていたが、徐々にその緊張は解けていった。
     だんだん荒い息が交差するようになる。
     ナリコを見つめる自分の視線が甘くなってくるのに気づいて市川は、
    「ナリコ…。俺…大丈夫かもしれない。ナリコなら…大丈夫かも」
     唇が触れる距離のままで丁寧にそう言った後、生真面目そうにキツくナリコに口づけた。
     その流れのまま手際よく、慣れた風にパジャマのボタンを外そうとしたけれど、突然告白された心の動揺の余韻がまだ残っていて、それと初めてナリコとキスした緊張のせいでボタンがうまくはずせない。もたつく俺の手元をナリコが、濡れた目で見るともなく見ているから余計にどきどきする。ボタンは諦めてそっと身体を横たえ、背中に手を滑り込ませてみる。その瞬間、今まで知り得なかったナリコの身体の柔らかさを初めて知って心臓が跳ねた。そして、ほとんど反射的にナリコを抱きしめてからもう一度言ってみた。
    「ナリコなら、大丈夫かも」
     ホントにそう思ったからそう言ったのに、ナリコは顔を背けながら、
    「あんまりそうは見えないけど…ありがとう」
     噛みしめるように時間をかけて言った後、さっきよりもっと激しく泣き出した。

     窓の外で紫陽花が揺れているのが見える。
     イチさんの身体と私の身体と同じ速度で紫陽花が揺れているのが見える。
     「ナリコ、何見てるの?」紫陽花。「アジサイ?」そう。イチさんがくれた紫陽花が咲いたの。やっと咲いたの。
     イチさんが、私のまつげの先に溜まった涙を長い指で拭ってほおをなでてくれる。
     その手首から痺れるような甘いシトラスの香りが改めて流れてくる。私は、その香りを全部吸うのはもったいなくてはばかられる…ほどイチさんのことが愛しいってことをもういっかい確認して、でもやっぱり自分の内に入れたくて、味わいながらゆっくり深く吸い込んだ。
    | sweetminami | sweetcitrous | 12:47 | - | - | - | - |