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      結局、ドライブなんて言っても行くあてなんてなくて、夏目の、
    「俺、のど渇いたわ」
     の一言でファミレスに来た三人だ。
     最初は、
    「えー、何?結局ファミレス?俺、明日、朝早いんだけど?」
     なんてぶーぶー文句を言ってた市川だったが、いざ案内された席に着いていちごフェアの特別メニューを見た途端、
    「うわー、全部いちごだよ。どれにしよう」
     と、身をくねらして楽しそうに悩みだした。
    「ねぇ夏目。夏目はどのいちごにすんの?」
     目を輝かしたまま市川が夏目に聞いてくる。
    「は?なんで俺もいちご頼むことになってんのよ?俺、甘いものは苦手なんだよ。アメリカンでいいよ」
    「えー?『のど渇いた』ってゆってた人が普通、アメリカン頼む?」
     相変わらず夏目は冷たい。
    と、いうよりも相当マイペースなんだろう。
    「夏目はなんでいっつもそんな意地悪言うのー?もー。じゃあナリコは?ナリコはいちご、食べるでしょ」
    「ごめんイチさん、私も甘いものはちょっと…。もう夜遅いし、太るのが怖いからカフェオレにするよ」
    「えー?何このふたり?超ノリ悪いんですけど?」
    またこの構図。もう三人の間ではお決まりの一対二の構図。
    夏目ちゃんとは好きな人がカブってるだけあって、こういうとこでも変に気が合っちゃうのかもしれない。
     市川対市川を愛しているふたり…。まぁ、夏目と市川は、愛し合っているけれど…。
     愛し合って…あ、と、ナリコは気付く。
     ふたりと暮らすようになってから、まだ聞いてないことがあることを。
    「あのさ」
     ナリコは、自分の正面に並んで座るふたりに聞いてみる。
    「ん?なに?」
     夏目が眼鏡の奥から黒目がちの目をこちらに向けてきた。
    「ふたりのなれそめってなに?」
    「えぇ??」
     驚いた市川が、いちごフェアの特別メニューから顔を上げて変な高い声を上げる。
    「市川さん…うっさいなー…」
     もう、そんなこと位で驚くなよ、と言いながら夏目はナリコに向き合った。
     依然として市川は顔を真っ赤にして「えぇ、でも…」とかなんとか言ってる。
    「そりゃ気になるよね。なんで、俺みたいな今が旬って感じのイイ男と、市川さんみたいな変な男が付き合ってんのか?ってさ」
    「変な男とはなんだよー」
     照れて赤くなった顔に、ムキになった赤みがさして、もう市川は耳まで真っ赤だ。今日市川が着ている(イチゴがたくさん乗ったホールケーキのイラストが中央にデカデカと入り、その下には「HAPPY BIRTHDAY」というロゴが入っている)変なTシャツは結構濃いめのピンクだが、もうあまり顔との色の差がない。
    「いや、私はただ単に、『ゲイの人たちって、どうやってお付き合いを始めるんだろう?』と、思いまして…はい」
    でもまぁ、そん中からこのふたりってのはなかなかナイかも、とも付け加えた。
    「あぁっ。ナリコまでそんなこと言う?『ナイ』って何だよ、『ナイ』って…」
     まだわあわあ言っている市川をよそに、夏目が話し出す。
    「市川さんのナンパだよ」
     と。
    「へぇっ?ナンパ?」
     イチさんにそんな度胸があったんだー、と、ナリコ。
    「夏目っ。ナンパって言い方やめてよ。そんな言い方すると、俺がスゲー軽いヤツみたいに聞こえるじゃん」
    「でもあれはナンパだよ」
    「ちーがーうっ」
     ナリコを前に揉め出すふたり。
    「そんな言い方すんなよっ」
    「じゃあ他になんて言えばいいんだよ?」
    「でもあれは夏目がー」
    「違う、市川さんが」
     お互い、キッカケを作ったのは相手の方だと言いたいらしい。
    「どういうこと?」
     ナリコは聞いてみたが、
    「夏目が誘ったんだよ」
    「市川さんが襲ったんだよ」
     まだそんなことを言い合っていてラチが明かない。
     なるべく平等にふたりの言い分を要約すると、こうだ。

     ある晴れた春の日の夕方。
     仕事を終えた市川が、桜が散りゆくのを眺めながら帰る途中。もうすぐ家に着く、というところで道ばたにかがみ込む痩身の男を見かけた。
     市川の勤める小学校から、市川が当時住んでいたアパートまでは途中、用水路沿いをゆく。彼の知る「用水路」というものが大抵そうであるように、その用水路沿いにもたくさんの桜の木が植えられており、市川は毎年この季節になると自分の通勤路が華やぐのを楽しみにしていた。
     そんな日本らしい春の季節感があふれるこの道に、市川曰く「相当に今風」の男がじっとかがみ込んでいる光景は、どこか市川に違和感を与えた。
     それでも最初は「この人、何か落とし物でもしたのかな?」と、思ったぐらいで特に気にも留めず、その横を通り過ぎようとした市川だったが、何気なく見た男の様子がおかしいことに気が付いた。
    「え?」
     一目で具合が悪いと分かるほどに男の顔は青ざめており、その上たらりたらりと冷や汗までかいている。桜の花びらが長めの髪に絡まるのを払いのけもせずに目をつむったまま肩で息をし、じっとかがみ込んでいる。
     それが夏目だった。
     その日の夏目は、前日の深酒が抜けないままで日が高いうちから飲みに出掛け、そしてまた飲み過ぎていた。結果、帰り道で急に気分が悪くなり、めまいを起こしてかがみこんでしまったのだった。
     そんなことは夏目の日常には時々起こりうることだったが、苦しそうにしている人を放っておけないのは市川が真面目な小学校教諭ということも関係していたのだろう。
    「あの…」
     気が付くと声を掛けていた。
    「大丈夫ですか?」
     夏目に近寄り、顔をのぞき込む。
    「は…はい…」
     そう答えて市川を見上げた次の瞬間、夏目は嘔吐した。

    「市川さんの顔があまりにも気持ち悪かったから…」
    「夏目っ」
    「それで?」

     びっくりした市川は、吐き続ける夏目の背中を優しくさすってやり、持っていたペットボトルの水を与えて口をゆすがせた。そして「救急車、呼びますね」と提案した。
     が、ただ単に飲み過ぎただけだと分かっている夏目は涙目になりながら市川を見上げ、
    「ここで少し休んでいけば、良くなるんで…」
     と、その申し出を断った。
     そう言われても、目の前で嘔吐した人をそのまま放ってはおけない。
     考えるより先に市川は言っていた。
    「うち、すぐそこなんで、ちょっと休んでって下さい」
    「でも…そんなの悪いです…」
     遠慮して断る夏目の腕をとり、
    「いいから、とにかく行きましょう」
     市川は夏目を自室に連れ帰った。

    「ね?ナンパでしょ?」
    「だーかーらー、違うってばっ。俺はただ単に親切心から…」
    「じゃあなんであの後、俺らヤったの?」
    「えぇっ?」
    「夏目っ。ナリコが完全に引いちゃってるじゃんっ」
    「でもホントのことだろ」
    「そうなの?」
    「そうだよ。な?市川さん?」
    「…」
    「初めに俺のこと見た時、『かわいい』って思ったんでしょ?『涙で潤んだ目にやられた』って言ってたじゃない?」
    「…」
    「へー…」

     自室に夏目を連れ帰った市川は、かいがいしく夏目の看病をしてやった。
     自分の身体も支えきれずにふらつく夏目をベッドに座らせて眼鏡を外し、冷や汗で濡れてしまったシャツを脱がせて洗い立ての自分のTシャツを着せてやった。
     うんうん唸っている夏目の身体を横にして布団を優しくかけてやり、髪に絡まる桜の花びらを一枚一枚丹念にはずし、氷水で冷やしたタオルで顔を丁寧に拭いてやった。
     苦しそうな表情で眠る夏目を見守り、起きたときの為におかゆの用意までしていた。

    「今んところ、完全に市川さんがキッカケ作ってるよね?」
    「でも俺に抱きついてきたのはお前からだろ?」
    「なっ」
    「本当?夏目ちゃん?」

     市川のベッドで眠りながら、夏目は夢を見ていた。それは、ついこの間別れた彼女の夢。
     不倫だった。
     ふたりの未来に明るい光が射していないことは最初から分かっていたが、いざ彼女に、
    「旦那が転勤になって、私もついて行くことにしたの。不倫で遠恋は無理。だから、別れよ?」
     そう切り出された時は驚きと絶望のあまり、足もとがグラグラと揺れるのを感じた。
     そのショックから、ろくに食事もとらずに連日連夜、酒をあおり続けた結果が今のこの状態だった。
    「い…いやだ…。行かないで…」
     閉じた夏目の目から細く涙が流れる。
     朦朧とした意識の中で泣きながらうなされる夏目に対してどうすればいいか分からず、おろおろしながらも市川は答えた。
    「だっ…大丈夫ですよ。ここにいますよ」
     少しためらったが、何かを求めて空を切る夏目の手を取る。
    「行かないで…」
     これは偶然だったが、市川愛用の香水はユニセックスのもので、夏目の別れた女と同じものを使っていた。
     シトラス系でありながら、どこか甘さを感じさせる不思議な香り。
     あぁ。この香り。俺のもとに帰ってきてくれたんだ。
    「え?あ、ちょっ」
     戸惑う市川をよそに夢うつつで夏目は市川を強く引き寄せた。バランスを崩した市川が一瞬夏目に覆い被さるような体制になり、
    「…んんっ」
     急に息が出来なくなった…と、市川が思った時にはもう、夏目が身体を翻して市川を組み敷き、そして市川に口づけていた。

    「ちょーっと。待ったっ」
    「へ?なに?」
    「別れた女って何?夏目ちゃんって、元はゲイじゃなかったの?」
    「違うよ」
    「えぇ?」
    「ちなみに俺もちがうよ。夏目のことは確かにかわいいって思っちゃったけど。そん時、彼女いたよ」
    「えええぇっ」

    「うそだろ…」
     空が白みだした頃に目を覚まし、自分の裸体と眠る市川の裸体がひとつベッドの中にあるのを認めた夏目は、絶望したように両手を顔に当て呟いた。
    「うそだろ…」
     もう一度呟き、涙で腫れた目をこすってから眼鏡をかける。ぼやけた視界のせいにしたかったけれど、クリアな視界で改めて見直したところで状況はなにも変わらない。
    「あぁー…」
     今まで、線の細いその外見の所為で男の痴漢に遭ったり、男から愛を告白されたり、というような経験は何度かあったもののそれに応えたことなんて一度もないし、もちろん男と寝たのなんて初めてだった。
     下腹部に、今まで経験したことのない類の違和感が、痛みが、ある。
    「ん…んん…」
     夏目が起きた気配に市川が目覚める。
    「ん…おはよ…ございま…す…」
    「…」
    「気分…どうですか…?」
    「…」
    「あの…」
    「気分…?」
     まだ寝ぼけているような市川を夏目が睨む。
    「良いわけないだろっ」
     そう怒鳴られてたじろぐ市川。一気に目が覚めた。
    「お前っ、最初っからそういうつもりで俺のこと部屋に連れ込んだのかよっ?」
    「ちが…俺はそんな…」
    「じゃあなんで?」
    「ええ?覚えてないの?最初にキスしてきたのはあなたの方ですよ」
    「俺?」
    「そう、あなたが『行かないで』って俺に抱きついてきて…」
     そう言われればそうかもしれない。
     昨日の感触が腕に蘇る。
     でも…なんで?なんで俺から抱きつくことに…?
     そこで夏目は気付く。
    「この香り…」
    「え?香り?」
    「そう。この香り、シトラスの。これ、あんたの香水?」
    「え?」
    「ちょっと」
     いきなり手首を掴み、そこに鼻を寄せる夏目に戸惑う市川。
    「あ…あの…」
    「やっぱり…。あいつのと同じ…」
     夏目の眉間が歪む。
    「こんなややこしい香水、使うなよっ」
    「えー。何それ?香水選ぶ権利ぐらい俺にもあるでしょ?」

    「ふたりって、最初っからそんな感じだったんだ」
     イチゴパフェをつつく夏目と、アメリカンをすする市川を見ながらナリコは言った。
     甘いのは要らないと言っておきながら、市川のイチゴパフェが運ばれてきた途端「あ、俺やっぱそれ食べたい。市川さん、俺のと交換してよ」と、夏目が市川のパフェを奪ったのだ。
    「そう、夏目は最初っから勝手でわがままな男だったよ」
     夏目を見やると、パフェに夢中だというテイを装って聞いていない振りなんてしている。
     そんなの絶対無理なのに。
    「それでその後、どうやってふたりは付き合うことになったの?イチさんの彼女は?」
    「もうその彼女とは終わりそうな感じだったんだ。早朝から夕方まで小学校教師やってる俺と、夕方から早朝までバーで働くその子とでは生活リズムが違い過ぎたんだよね。で、やっぱり別れちゃって…」
    「そっか…」

     その日は、
    「どうも、お世話になりました」
     と、夏目はあっさり帰って行った。
    「服はお返ししに来ます」
     屈んで靴ひもを結びながらの姿勢のままで市川にそう告げる。
    「え…いや、別に…いいですよ…。あ、でもやっぱり…返してもらおうかな…。あっ…でも…どうしようかな…」
     大きな手を額にあてていつまでもおどおどしている市川に、怪訝そうな眼差しを一瞬向けてから立ち上がり、夏目はもう一度言う。
    「服はお返ししに来ます」
    「あ…はい…そうですか…じゃあ…」
    「…」
    「あ、え…でも…やっぱりそんなの悪いし…」
     返しに来るっつってんじゃん。
     なんだこいつ。今まで見たこともないくらいの優柔不断さだ。だらしがない。
     いくら香水に騙されたからといって、なんで俺はこんな男に抱かれてしまったんだ?
     不快さで下を向いた夏目の目に、もじもじと動く市川の大きな足が映る。
     つっかけたサンダル。かかとが随分はみ出している。
    「お返ししに来ます」
     ふぅっと呆れたようなため息をひとつついて、
    『このやりとり、もう3回目』
     心の中でカウントした。
     お前を気遣って言ってるんじゃないっつうの。
    「だって」
     顔を上げ、今度は市川の目を見据えてハッキリ言う。
    「今洗ってもらってる俺の服も、返して貰わないといけないし」
     確かに市川の貸した服はどうでもいいような(目にモザイクが入った男ふたりが、パンツ一丁で殴り合いをしているイラストがプリントされている)変なTシャツだったが、夏目のは違った。
     最近買ったお気に入りのヴィヴィアンのシャツ。これは返して貰わないと。

    「あ、もしかしてそのシャツって今夏目ちゃんが着てる…」
     そうナリコに指摘されて夏目があわてて自分のシャツを見る。
     左胸にヴィヴィアンのオーヴの刺繍。
    「うわ…」
    「ほんとだっ。なーつーめーっ。思い出のシャツだぁ」
    「うっさいなー。このシャツ、家に帰ったらもう捨てるよ」
    「夏目…」

     数日後の夜。
     夏目は、借りたTシャツを洗濯して、あんなことになったのは不本意だったけれど、一応介抱してもらったお礼にと、ワインを持って市川の家を訪ねた。
     早く全部忘れたい。
     この数日間、ことあるごとに『酔いの向こう側にあったはずの記憶』が夏目の心をかすめていた。
     最初は戸惑っていたくせに結局応えた市川の舌の味、夏目の背中をはいずり回る大きな汗ばんだ手のひら、その大きな手のひらに身を預けた自分の体重、市川の髭のそり残しが左耳に当たって痛かったこと、「本当にするの?」もうとっくにやめる気なんかどこかに行ってしまっているのに一応はそう聞いてみる市川の上気した顔、「いいから、早く」早くってなにが?自分で言っておいてそんなことを考えていたこと、未知の世界に不安を覚えながらも急かしてしまった自分の欲望、「いっっ、あっ」「痛い…ですか?」「大丈夫…。大丈夫だから、あぁっ」「んっ」それに続く耐え切れてないお互いの声、「あ…すごい…か…わいい…」左肩にかかる市川の熱っぽい息、夏目の頬の涙を拭ってそのまま黒髪を梳いた市川の長い指、胸に滴ってくる市川の汗。下腹部に流れ込んできた市川の熱さ、そして全ての引き金となってしまった甘いシトラスの香り。
     疎ましいほど鮮明に映像が、音声が、においが夏目の脳裏をよぎる。
     けれど何より疎ましいのは、それらの記憶ひとつひとつを蘇らせる度に肌を粟立たせている自分自身。堪らず自慰行為に及んだことは絶対に自分だけの秘密だ。その時はいつもよりひどい自己嫌悪に苛まれた。
     早く全部終わらせて、『男に抱かれたこと』なんか忘れたい。
     忘れたい。忘れたい。忘れたい。
     その言葉だけを頭の中でリピートさせながら、もう二度と立つことはないであろうドアの前までたどり着いた。
     あの日はお互いの名前すら確認しなかったが、表札には、
    『市川』
     と、書いてある。
    「市川さん…か…」
     まぁ、今更名前を知ったところで、その名を呼ぶ機会もないだろうけど。だいたい、その機会があった時は名前を知らなかったし…。
     …『呼ぶ機会』って何が?一体俺は何を考えてんだ?
     そんな思いを巡らせた所為で少し指先が強ばったが、思い切って呼び鈴を鳴らす。
     ブーッっという間抜けな呼び出し音。
    「はーい」
     そしてその呼び出し音に呼応するかのような間延びしたのんきな声の後、ほどなくして市川が出てきた。
    「お、おぉ。ビックリした」
     ドアノブに置かれたその大きな手を目にした瞬間、また記憶が蘇りかけて肌がピリッと反応したが、
    「どうも」
     なんとかそれを落ち着かせ、無表情のまま夏目は会釈をした。
    「お借りしていたTシャツ、お返ししに来ました。どうもありがとうございました」
     努めて抑揚なくそう言い、持っていた紙袋を市川に押しつける。
    「俺のシャツは?」
    「あぁっ。ごめん。すぐ取って来る」
     市川は、アイロンをかけてハンガーにかけておいた夏目のシャツを慌てて取ってくると、それを丁寧に畳んでスターバックスの紙袋に入れ、名残惜しそうにおずおずと差し出した。
    「はい…これ…」
    「どうも。それじゃ」
     半ば奪うようにして紙袋を受け取る。
     お礼の言葉はもう言った。服は返したし、返してもらった。もうここに用はない。早く帰ろう。
    「あのっ」
     しかし、夏目がきびすを返して帰ろうとするのを市川が制した。
     びくっと夏目がその細い身体を強ばらせる。市川が思わずその腕をとってしまったから。
     そして市川はといえば、そんな自分自身に動揺していた。
    「あっ。すっ、すいません」
     しどろもどろになりながら慌てて手を離す。
     掴まれた腕の熱さにまた記憶が蘇りそうになり、夏目は顔が上気するのを感じたが、すぐにその動揺を払いのけ、この上ないほど不審そうな目を改めて市川に向けた。『前回ふたりの間に起きたことを話し出したら殺す』とでも言いかねない目を。
    「なにか?」
    「あの…。あ、あのっ…もう具合は…いいんですか?」
    「はい。お陰様で…」
     一刻も早くここから立ち去りたいと思っているのにこの男は一体何を言いたいんだろう?
    「あの…俺…」
     そして、市川が何かを言いかけたその時、市川の部屋の、つけっぱなしのテレビからカキーンという快音が響いた。
    「打ったーっ。大きい、大きい、これは入るか?入るか?入るか?入ったーっ。満塁ホームラーンッッ。サヨナラですっ。サヨナラ満塁ホームランですっ」
     野球中継の実況が、夏目がひいきにしている球団の劇的勝利を告げる。
    「え?あっ。うそ?やったっ。勝ったっ」
     一刻もここを早く立ち去りたいという今の状況も忘れて、思わず喜びを声に出してしまう夏目。
    「うわー。やったぁー」
     更に市川を軽く押しのけてまで目はテレビに釘付けになっている。
     そんな夏目を市川が目を丸くして見ていた。
    「え?そうなの?」
     と、さかんにその目をしばたかせながら。
    「あなたの出身って、もしかして…」
    「え?」
     このことが一気にふたりの距離を縮めた。
     ふたりが同郷だということが分かったのだ。
     そしてもちろん同じ球団のファンだ、ということも。
     自分の好きな球団ファンに悪い人間はいない、というのが夏目の最高の持論だった。
    「それならそうって早く言ってよ」
    「うん。そうだね…ごめん」
    「別に…謝らなくてもいいけど」
    「それもそうだね。ごめん」
    「あ、また謝ってるよ?」
    「あれ?あれ?ほんと?あれー?ごめん」
    「えー?」
     その日は夏目が持ってきたワインをふたりで空けた(と、言っても市川は下戸で、持参してきた夏目が結局はほとんど飲んでいたのだが)。
     周りに、自分がひいきにしている球団ファンがいないことで日ごろからつまらなさを感じていたふたりは、それからは可能な限り一緒にそのチームの野球中継を見るようになっていた。主には市川の部屋で、時には夏目の部屋で。そしてまた時にはふたりして球場まで出かけて行ったりもした。
     田舎から単身出てきて都心に暮らす夏目たちがひいきにしている球団のファンは、球場では極端に少数派だったが、夏目には市川が、市川には夏目がいると思うとそれだけで心強かった。
    「俺、上京してすぐ、ここの球場でビール売るバイトをしてたんだ」と、市川が言えば、
    「うそ?そうなの?俺、昔からよくここに遊びに来てたよ」と夏目が返す。
     じゃあとっくに会ってたかもしれないねー、なんて笑い合っては観戦を楽しむ。
     思う存分自分の好きな球団について話せる相手は本当に貴重で、それが口実で頻繁に会うようになったふたりだったが、一緒にいるうちに野球以外の話もたくさんするようになる。
     ふたりともが同時期に失恋していたことも、ふたりの距離を縮めるのを手伝った。
     全く異なる性質の職場で働いていることもお互いの興味をそそり、どれだけ一緒にいても話題に詰まることはなかった。
     しかし、最初の日に起きたことにはどちらもが触れないようにしていた。もちろんその間ふたりの間にそういった行為はない。
     セックスに関する話はふたり共が意識的に避けていたように思う。
     そして夏目は、いくらあんなことがあったとはいえ、人の好い市川に対して最初は態度が悪かったことを反省して後悔をしていた。
     夏目と市川は気の合う友達同士になった。

     そんな風に、ふたりが友情を育みつつあったある日。夏目が市川の部屋に来る予定の日。
     市川に急な残業が入り、会う約束をキャンセルしたことがある。秋の運動会で使う予定の玉入れの玉が足りなくて急遽、教員が手で縫うことになったのだ。
    『急に残業が入っちゃって今日は帰りがだいぶ遅くなりそう。だから今晩のナイターは別々に見よう。約束してたのにごめんね』
     市川は夏目にそのことを詫びるメールしておいた。
    『わかった』
     しばらくして、夏目からのそっけない返信メール。
    「…もうちょっと残念がってくれてもいいのに」
     今日の約束を反故にしたのは自分からのはずなのに、市川はそんなあっさりとした夏目の反応に少しの寂しさを感じていた。
     日がとうに落ちた頃、ようやく必要な分の玉を縫い上げた(「市川先生の玉、あまり丸くありませんね」とみんなに笑われてしまったが)。同僚たちに、飲みに行きましょうよと誘われたけれど、それを断り家路につく。もう、ナイターも終わりそう。
     夏目…すねてるかな。
     電話してもっかい謝った方がいいかな。
     でもな…あの夏目のことだし、なんとも思ってないか。
     下手に謝ったらまた「なにビビってんの?」なんて馬鹿にされるだけかもな。
     だけどな…やっぱり…一言謝っておこう。
     デニムパンツの後ろポケットから携帯電話をもたもたと取り出しつつアパートの階段を上っていく。夏目と一緒に買った球団マスコットのストラップがポケットに引っかかってうまく取り出せない。
    「あー、なんて言おう」
     ようやく取り出した携帯の、リダイヤルから夏目に電話をかける。
     あれ?呼び出し音が?
    『もしもし』
    「もっ、もしもしっ夏目?今日ごめん、あの…」
     そしてたどり着いた部屋の前。
     そこにはあるはずもない華奢な黒い影。
    「夏目っ」
     短く叫び、携帯を閉じながらあわてて夏目に駆け寄る。
     あれ?なんで?夏目?
    「あ、あぁ。市川さん…。おかえり」
     慌てた様子の市川に対してこちらはゆっくりと携帯を閉じ、もたれかかっていたドアから体勢を立て直しつつ疲れた目を返してくる。
    「『おかえり』じゃないよ。今日は遅くなるからナイターは別々に見ようってメールしたでしょ?」
    「そうなんだけど」
     少しもずれてなどいない眼鏡を中指の背で押し上げて「ははっ」と、自嘲したように笑いながら夏目が続ける。
    「最初は自分ちで一人で見てたんだけどさ、やっぱり…つまんないんだよね。市川さんと見ないとさ、つまんないんだよ」
    「夏目…」
    「もう、戻れないんだよ。ひとりで見てた頃にはさ。もう…戻れないんだよ」
     夏目は一気にそう言うと、急に大人しくなり、
    「…待ちくたびれちゃった」
     小声で言って、市川の肩に頭をあずけて小さく笑った。
     そんな夏目に市川は、ただただたじろぐだけで、抱き締めようかと迷った手も上げたり下げたりを繰り返すばかりで、その所在をなくしていた。
     あぁ、自分の心臓の音がうるさい。
    「市川さん…」
     ふいに名前を呼ばれたことにどきりとし、困った顔を一瞬作って、でも市川は聞く。
    「な、なに?」
     鼓動が早くなってんのがバレて、またバカにされるのかな。
    「市川さん…」
     もう一度名前を呼ばれた。
     鼓動の早さは収まりそうもないけれど、努めて落ち着いた調子で今度は優しく聞いてみる。
    「なに?」
     夏目の長い髪が首筋をくすぐって、なんだかうまく息が出来ない。
     俺、さっきまでどうやって息してたんだっけ?
    「あの…さ…」
    「ん?」
    「合鍵…ちょうだいよ」
     そう言って、はぁっと小さく息を吐いた夏目がこれ以上もないくらいに照れているのが、声から、髪から、吐息から、全身から伝わってくる。
     鼓動が早くなっていたのは俺だけじゃなかったんだ。
     市川は夏目を抱き締めた。
    「市川さん?」
    「…」
    「…」
    「夏目…」
    「…うん」
     夏目はじっと次の言葉を待った。
    「キスしていい?」
     前は夏目からだったけれど、今は自分からキスをしたい。
    「ねぇ、いい?」
    「バカ」
     夏目が笑う。
     やっぱりだめか。
    「そんなの…いちいち聞いてするもんじゃないでしょ?」
    「夏目…」
     そして、市川は夏目の肩を掴んで自分の正面に向き合わせた…。

    「言うなっ。夏目っ。その後のことは皆まで言うなっ」
     真っ赤になって慌てる市川の様子を、ニヤニヤしながら夏目が楽しんでいる。
    「と、いうことだよ、ナリコ」
    「へー…。ドラマチックだねぇ」
     話を全て聞き終える頃、ナリコが頼んだカフェオレはとっくに冷めていた。
     口をつけるのも忘れて聞き入ってしまった。
     でも、なんだか楽しい気持ちになっていたから、それでそんな冷めきったカフェオレも、やっぱりなんだかおいしく感じられたのだった。
     いいなぁ、夏目ちゃん。
     やっぱり夏目ちゃんが羨ましい。
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