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     午前三時。ふと喉の渇きを覚え、目が覚めた。
    「いつの間に寝てたんだろう」
     ナリコはぼうっとする頭で今日一日のことを思い出していた。
     夕方頃からお酒を飲み出したのは覚えている。
     駆け出しのイラストレーターであるナリコは今日も一日中、自室兼仕事場であるこの木造借家の二階の自室で絵を描いていた。
     今し方「描いていた」とは言ったが、今回の依頼は「迫力あるロケットの絵を」というもので、人物画を得意とするナリコはいきなり描いてくれと言われた無機質物体を一体どう描けばいいのか、ただただ悩んでいただけだった。
     だから正しく言えば「一日中悩んでいただけで結局絵は一枚も描けなかった」となる。
    「なんで私の所にこんな依頼が…」
     訝しげに思いつつも「無機質なモノは苦手だから」という理由だけで仕事を断るような考えは、どんな仕事でも受けたい新人のナリコには毛頭ない。それで、二つ返事でこの依頼を引き受けたのだ。描き上がった絵は、雑誌の特集記事(ファッション誌の美白特集。そこになぜロケットなのかを編集者に聞くと「『2007年美白の旅』というコンセプトなんです」と誇らしげに言われてしまった)の扉ページになるらしく、ギャランティだって悪くはなかった。
     しかし、得てして絵作りというものは頭に思い描くようには実際出来ないもので、ましてまだまだイラストレーターとしての経験が浅いナリコがその例外であるはずもない。
     それでも自分は描けると思いたいし、一旦プロとして依頼を引き受けたからにはどうやっても今回のクライアントである編集部が納得のいくロケットを描いて、期日までに提出しなくてはならない。
     何度も何度も、脳裏に浮かぶロケットの像をどうにか掴み取り、そのまま指先から紡ぎ出そうとしてみる。だが、なかなかその作業は思うようにはかどらなかった。ナリコの脳裏にははっきりと描くべきイメージが見えている。そのイメージをただ単に紙に写し取るだけだ、と思う。だが、実際描いてみるとどうもしっくりこないのだ。
     こんな絵が見たいんじゃない。違うこんな絵じゃない。
     どう奮闘しても、脳裏に浮かぶものとはほど遠い駄作ばかりが、机に置かれた紙の上に表れてくる。自分のこの身体の中で、はっきりとロケットを映し出している脳味噌とそれを描けない指先は、はたして本当に繋がっているのだろうか、と疑いたくなってくる。
    「あぁ、なんで出来ないんだろ」
     少し手をつけてはため息を繰り返すばかりで時間ばかりが過ぎてゆく。
    「ちょっと…気分転換にお酒でも飲んでみようかな」
     脳裏のイメージに手を伸ばすことに見切りをつけたナリコはペンを置いた。
     普段は仕事にキリがつくまでお酒を呑むことなんて思いつきもしない。
     だけど今日はちょっと気分を変えないと。
    「描けないスパイラルにハマりこんだんだよ。ここから抜け出す為に百薬の長の力を借ります」
    ナリコは自分で自分に言い訳をした。

     「飲む」と言っても酒にはてんで弱い両親のDNAをしっかり継いでいるナリコのこと。寝不足で飲み会に行って、帰りの電車の中で気を失った経験を持つことからも、自分が酒にとことん弱いのは身をもって分かっている。
     だからほんの少し、香りを楽しめるウィスキーを舐める程度にするつもりだった。
     なのに気付くと眠っていた、なんてことになるほど飲んでいた。
    「二十八歳にもなって、何やってんだろ私…」
     少しズキズキする頭を押さえる。
    「でも、あ。そうだ、あの時」
     と、ナリコは思い出す。
    あの時イチさんが夏目ちゃんの話をしてきたんだ.。

     市川保(たもつ)と夏目祐(ゆう)。
     この、三十路を迎えたばかりと、もうすぐ三十路のゲイのカップルと同居してみようと思ったのは、最初は本当にただの好奇心からだった。
     元来、
    「おもしろけりゃいいじゃん」
     と、いう、ふざけた気質を性格のベースに持つナリコは、
    「友達に話したときにウケればいいや」
     ぐらいの軽いノリでこの話を受けた。
     それは、恋人に振られてしまって落ち込んでいるナリコを励まそうと友人の沙耶が飲みに誘ってくれた時の話だ。
     その恋人とは七年も付き合っていたのに、
    「お前との将来が想像できない」
     と、いう、漠然とした理由でふられてしまった。
     その行き場のない喪失感で少しやさぐれた気分になっていたのも手伝ったのだろう。酒の肴に沙耶が何気なく言った、ゲイのカップルと同居してみないか?との提案に乗ったのだ。
    「あのさ、ナリコ」
    「ん?」
    「私の友達に、市川くんっていうゲイの男がいてさ」
    「ゲイってみんな、男でしょ?」
    「もうっ、うるさいっ。最後まで聞いてっ」
    「はーい」
     ヘラヘラしながら返事するナリコ。相当顔が赤い。
    「で、その市川くんさ」
    「うん」
    「彼氏と住む部屋探しに困ってんのよ」
    「ふーん」
    「それでさ。ねぇ、ナリコ。そのふたりと一緒に住んでみない?」
     沙耶はほとんど冗談のつもりだったし、えー、やだよ、と、言うナリコの反応を期待してそう言ったのだが、
    「お、いいね。そうしよう。その市川くんとやら。彼氏と一緒にウチに住めばいいじゃーん。それってすっごく、いいじゃーん」
     沙耶の意に反してナリコはあっさりその提案を承諾してしまったのだ。

     実際、ゲイのカップルの部屋探しは相当大変らしい、というのは何かの雑誌で読んだ事はある。
     女のふたり暮らしのたやすさに比べ、男のふたり暮らしを受け入れてくれるような寛容な大家さんはなかなか見つからないらしい。ナリコが読んだその記事に出てきたゲイのカップルは養子縁組を組んで名字を同じにし、
    「兄弟です」
     と、ウソをつくことで、ようやく部屋を借りるところまでたどり着いていた。

    「ウチんち、一階部分はほとんど使ってないんだよねー」
     少しロレツの危うくなってきた舌でナリコは続けた。
     もともとナリコの住む木造二階建ての古い借家には、いとことふたり暮らしをしていた。しかしそのいとこのお姉ちゃんが最近地方に嫁いでしまい、引っ越す資金もないナリコは今まで折半していた家賃を全額払うことでそのまま今の借家に住み続けていたのだ。
    「会ったこともない、しかもゲイのカップルだよ?一緒に住んでもいいって、それほんと?」
     訝しげに沙耶が聞いてくるが、
    「うーん…ほんとっ」
     と、ナリコは陽気に答えた。
     自分から打診したものの、ナリコがとことん酒に弱いことを知っている沙耶は、こんな話を飲みの席で進めて良いのかな、と、ちらりと思ったが結局ただ思っただけで、更に話を進めてみることにした。
    「私もさ、市川くんとは知り合いだから、市川くんがすっごくいいヤツっていうのは自信持って言えるんだけどさ、その彼氏には会ったことないんだよね。それでも…いいの?まぁ、その彼氏も、市川くんの話からと、写真から察する限りはいい子そうだったけど…」
     その時沙耶は、以前市川がニヤニヤしながら見せてきた携帯電話の電池パックに貼られた、市川と市川の「彼氏」のプリクラを思い出していた。痩せ型で長髪。黒目がちの瞳を持つその「彼氏」のことを「なんだか女の子みたいな男の人なんだね」と、沙耶はからかって市川にそう言ったのだが、市川は「うん、夏目は本当に…かわいいんだよ」と、勝手にいい意味に解釈して勝手に一人で照れていた。
    「ウチはさ、ほら、最近彼氏と住み始めたばっかじゃん?だからちょっと一緒に住むのは厳しいんだよね」
     まぁ、どっちにしろワンルームだから無理だけど、とも付け加えた。
    「ナリコ。それって本気の本気?ほんっとにいいの?決めちゃっていいの?」
    「ええ?いいよー。付き合いの長い沙耶ちゃんの友達ならたぶん大丈夫。その市川くんとやらの彼氏が『いい子そう』っていう沙耶ちゃんの直感も信じちゃう。大家さんには何年も会ってないから、誰と住んでても家賃さえキッチリ振り込んでれば何もバレないし何も言われないよ。私も誰かと住んだ方が経済的に助かるしさ」

     酔いの勢いに任せて同居を快諾したナリコだったが、
    「誰かと住んだ方が経済的に助かる」
     と、いうのは本心だった。
     恋人には振られてしまったが、それに反比例するかのようにイラストの仕事依頼は徐々に増えてきていた。しかしまだまだそれだけで食べて行くにはナリコは新人すぎる。
     その上、家賃もいきなり今までの倍払うことになってしまったのだ。それで仕方なく増やしてしまったバイトのせいで最近では絵を描く時間もうまく取れず、ナリコはそのことで悩んでいた。
     また誰かと住めるなら、絵の仕事だけでなんとかなるだろう。
    「それに」
     とナリコは続ける。
    「『ゲイと暮らす』なんて変な男っ気、ふられたての今の私にはぴったりじゃない?それがいいリセットボタンになりそうなんだよねー、なんとなくだけど。もうしばらくは男を作る気もないしね」

     そして初顔合わせの日、ナリコの指定したカフェにやってきたのが、小学校教諭をしているという市川と、その彼氏の、某有名セレクトショップに勤めているという夏目だった(夏目に会ったことがない沙耶は、その場に激しく参加したがったがどうしても仕事が休めず、とても悔しがっていた)。
     ファッションモデルになれそうなほどの長身の持ち主でありながら、(ツキノワグマが丸太を運んでいるイラストがプリントされている)変なTシャツにお気に入りブランドのジャージを羽織り、デニムパンツという出で立ちで猫背気味に歩く、ひどい癖毛のどこか冴えない市川と、市川ほどではないにしてもかなりの長身に、顎のあたりまであるサラリとした緑の黒髪を揺らし、スクエア型の黒ブチ眼鏡から黒目がちの瞳を覗かせている、何となくかわいらしい雰囲気を持つ夏目とでは(夏目の容姿があまりにもナリコのタイプだったので思わずナリコは心の中で『あぁ、この人がゲイだなんてもったいない』と呟いてしまった)、どう考えたって気は合わなさそうなのにふたりは恋人同士だった。

     市川と夏目はお互いを下の名前で呼び合わず、
    「夏目」
    「市川さん」
     と、名字で呼び合っており、そのことも更にふたりを恋人同士らしく見せなくさせていた。
     ふたりの会話を聞いていても、何故か常に、市川より一つ年下の夏目が優位に立っていた。
    「もー、市川さんはだらしないなぁ」
     とか、
    「だから市川さんはダメなんだよ」
     などとしきりに夏目が市川をバカにし、それに対して、
    「なんだよ、夏目。お前、何考えてるのか全然わかんないよ」
     と、市川が支離滅裂になり出し、翻弄されていくのが常だった。
     そういった全く噛み合ってないようなふたりのやり取りも、このカップルを恋人同士らしく見せることを大いに邪魔していた。
     そんなふたりは部屋をシェアさせてくれたナリコに大変感謝しており、
    「家賃と光熱費は全額俺らが払うから」
     と有り難い申し出をしてくれた。
    「部屋が見つかった上に、敷金・礼金も浮いたからね」
     何もせずにその申し出を受けるのは流石に悪いので、家事の一切をナリコが引き受けている形だ。

    「イチさん」
     と、ナリコは市川を呼ぶ。
    「夏目ちゃん」
     と、ナリコは夏目を呼ぶ。
     恋人同士の本人たちでさえ下の名前で呼び合ってないのに、自分だけが下の名前で呼ぶのはなぁ…でも何か工夫したいなぁと思って考えた結果、こう呼んでいる。
     そう、イチさんと夏目ちゃん。

     で、今日だ。
     ナリコが『ロケットの呪縛』から逃れたくて気分転換をしようと一階に降り、共有スペースであるダイニングでウイスキーを物色していた時だ。
    「たっだいまー」
     無駄に高いテンションでドアを開け、市川が帰ってきた。
    「お、おかえりー」
     日の高いうちから飲酒をしようとしていた後ろめたさで、思わず声がうわずってしまう。
    「なに?ナリコ。もう晩酌?っていうか今は晩じゃないし。まだお日様、全然出てるよ」
    「いいの。ガソリン注入だから」
     開き直ったように言いながら、お気に入りのグラスに氷を入れる。
    「ふーん。夏目は?」
    「まだ帰ってない」
    「そう。で、ナリコの仕事は?終わった?」
     斜めに掛けていた鞄をおろして椅子に腰掛けながら市川が聞いてくる。
    「う…」
    「今回の依頼って扉ページなんでしょ?すごいじゃん。お酒に手が出るってことはもうほとんど描けたってこと?」
    「それが…」
     氷の上をなめらかに這うように琥珀の液体を注ぐ。そしてそれを少し舐めつつナリコは話した。
     今回の依頼はナリコの得意な人物画ではなく何故かロケットであること、そしてそれをどうにもうまく描けないこと、しかし提出期日は迫りつつあることなどを市川に訴える。
     それでちょっと気分転換をしようと思って階下に下りてきたのだと、昼間からの飲酒を弁解すべく、わざと困った顔をして見せることも忘れなかった。
    「そっかぁ、イラストレーターっつうのも大変なんだね。俺、絵のことはよくわかんないけど…。うーん。じゃあ」
    「何?手伝ってくれるの?」
     身を乗り出して聞いてみれば、
    「俺もナリコと一緒に飲もうっと。グラスちょうだい」
     と、市川。
    「は?」
     納得いかないながらもグラスを取り出し、それを市川に渡すナリコ。
    「一人で飲むよりいいじゃん。俺も、気分転換」
     そう言いながら冷凍室を探り、長い指で氷をつまんでグラスに落とす。そこにナリコがウイスキーを注いでやる。
    「気分転換?何の?イチさんも何かに行き詰まってんの?」
     何かに行き詰まってるようには全く見えないのんきそうな市川を見やれば、興味深そうにグラスに鼻を近づけている。ナリコと同じく下戸の市川は、まずは香りを楽しんでいるらしい。
    「うーん。行き詰まっては…ないかも」
    「やっぱりね。じゃあ気分転換いらないじゃん」
    「いいのっ。俺にも気分転換が必要なのっ。あ、じゃあこうする。『最近夏目の中に、俺に対する愛情があんまし感じられなくて寂しい』から、やけ酒」
    「『あんまし』でしょ?ちょっとでもあるならよくない?」
     舐める程度の予定が、思わずグビリと飲んでしまう。人と話しながら飲むと勢いが付いてしまって、一人で飲むよりもついつい量を飲んでしまうことがある。
    「よくないよー。ちょっと聞いて。夏目ったらさぁ…」
     そこから先はあまりよく聞いてなかった。ちゃんと聞いてもどうせイチさんの口から出てくるのなんて、愚痴じゃなくってノロケだし。
    「なんかさー、夏目ってさー、すぐ俺の顔見て笑うんだよー。ちゃんと真面目な顔してんのに『どうしたの、市川さん。そんなおもしろい顔して。俺のこと笑わせようと思ってんの?』とか、すーぐ意地悪言うんだよー」
    「ふーん」
     相づちは一応打つけどさ、そう言ってるイチさんが既に笑顔じゃない?っつうか、それって夏目ちゃんのテレ隠しじゃん。イチさんに見つめられて、テレてるだけじゃん。ってことは…どう考えてもコレってノロケ?あー、聞きたくない、聞きたくない。なんだよ、もー。全ッ然気分転換になんなかったー。はぁー。ったくー、もう飲んじゃえ。
     そんなことを思っているうちにナリコのグラスはどんどん空になっていった。

     で、次に気付くと今。
     午前三時になっていた。
     ナリコ自身の最後の理性がそうさせたのか、市川が運んでくれたのか、記憶がないながらもどうにか二階の自分のベッドで寝ていたようだ。そして、だいたいの酔っぱらいがそうであるようにナリコの喉はこれ以上ない位に渇いていた。
    「水…」
     はっきりしない頭のままゆっくり起き上がり、部屋の明かりを手探りで点ける。
    「うっ、まぶしい」
     いきなり開けた視界に目を細めつつ、水の入ったペットボトルの姿を求めて部屋の中を見渡せば、仕事机の上に見慣れない紙の束があるのが目に入る。
    「ん?何これ」
     部屋の明るさにようやく目が慣れ、一番上に置かれたメモをよく見ると、
    『こんなことぐらいしかできないけどゴメン。がんばれナリコ!かっこいい同居人・市川より』
     と書いてある。
    「ふっ。自分でかっこいいって…」
     イチさんらしいな。
     そしてメモと共に置かれていたのはロケットの画像をプリントアウトした用紙の束だった。あれから市川はインターネットで色々と画像を集めてくれていたらしい。
    「うわ、ほんとにかっこよかった。ちょっと感動しちゃったかも」
     でも『かっこいい同居人』なら断然夏目ちゃんの方だよなー、と苦笑いしつつ、市川がくれた書類をありがたく資料ケースにしまい、ペットボトルに手を伸ばしてからようやく気付く。
    「あ、カラだ…」
     ナリコの部屋があるこの二階スペースに冷蔵庫はない。
    「あー、めんどくさい。下に取りに行かなきゃ」
     仕方なく階段をのそのそと降りていく。
    「はぁ…っ…ぁあっ」
    「っくっ…あぁっ。はぁっ」
     しまった…。階段を降下するのをやめ、手すりをもったまましばし固まる。
    「しまった…」
     今度は小さく口に出してみてそのまま階段の中腹に腰をおろす。
    「はっ…くぅっ…あ、あぁっ…市川さっ…ぁあっ。…ぁんっ。…出るっ…あ…」
    「っ夏目っ…。俺も、あぁっっっ」
     どんなに『恋人同士に見えない』とは言っても彼らはやはり恋人同士だ。
     ナリコがかつて恋人同士であった時に恋人とそうしていたように、彼らは恋人同士なら当然すべき事をしているだけだ。
     全てを果てたようなふたりの荒い息づかいを聞きながら、でも、と、ナリコは思う。
     でもその行為の先に意味はあるの?私を抱いてくれたら、私は次の世代の人間を生み出すことが出来るのに、と。

    「せっかくふたりで一緒に住めるのに、私がいて、イヤじゃない?」
     そう夏目に聞いてみたことがある。
    「えぇっ?」
     突然そんな質問をされて驚いた夏目は、心の動揺を隠すかのように少しもずれていない眼鏡を人さし指で押し上げた。
    「なんでそんなこと聞くの?」
    「なんとなく」
     夏目はちょっと困った顔をしたが、すぐにふわっと女の子みたいに笑って言った。
    「部屋が全然見つかんない時に市川さんが言ったんだよ。『俺、お前と一緒に住めるなら、もう便所でもいいわ』って」
    「便所?」
    「そう、便所。で、俺は言ったんだよ。『便所なんて俺はヤだよ。そんな物件、お前一人で住んでくれ』って」
     それを聞いて、思わずナリコは笑ってしまう。
     不服そうな市川の顔と、口の左端だけを上げてニヤニヤしている夏目の顔が目に浮かぶようだ。
     きっとその時の市川はいつものように、
    「もう。夏目はほんと冷たいんだから」
     とでも言って拗ねたに違いない。
    「潔癖性の市川さんが『便所でもいい』っつうくらい、それぐらい俺らの部屋探しは切羽詰まってた。だからナリコが一緒に住んでもいいって言ってくれてほんとに嬉しかったんだよ。そんなナリコを崇めることはあったとしてもさ、イヤだなーなんて思うわけがないでしょ」
     願わくはふたりっきりで暮らしたかっただろうに、本心でなくとも、そう言ってくれる夏目ちゃんは本当に優しくていいなぁ、と、ナリコは思っていた。
     が、同時に、どうしても一緒に住みたいって、私もそんな風に思われたいなぁと、夏目のことを羨ましくも思っていた。

     普段、市川の前だと冷静で、冷めたような目で恋人をあしらっている夏目だったが、ナリコには気を許してしまうらしく、食後に食器をふたりで洗いながらなど、よく市川との思い出話をしてくれた。
    「ドッグカフェってさ、あるじゃん?そうそう、犬がいっぱいいて出迎えてくれるやつ。一緒に座ってコーヒー飲んだり出来てさ。あれに市川さんと行ったことがあるんだけど。犬がさ、俺の膝にばっか乗ってくんだよね。市川さんにはさ、全ッ然なつかないで。そしたらさ、市川さん、『もうっ。つまんないっ』っつってさ、急に立ち上がるから、あれ?帰んのかな?と思ったらさ、違うんだよね。『ワンワンッ』とか言いながら俺の膝に乗ってこようとすんだよ。先に乗ってた犬押しのけてさ。そんなの意味分かんないし、だいたい市川さんが『わんわん』っつったって、全然かわいくないっつうの」
    「俺さ、スゲー酒飲むじゃん?もうそんなの毎晩なんだけど。でさ、いつも通り酒飲もうとしたらさ、市川さんがスゲー止めてくんの。『そんなに飲むのは身体に毒だから』っつって。でもさ、そんなんで飲むのやめる訳ないじゃん?じゃあさ、いきなり俺の手からグラス取り上げてさ、市川さん、飲めないくせに全部飲んじゃったんだよ。かなりのハイスピードで。『何すんだよ』っつったらさ、『これれ、もう夏目は飲めないれしょ?』って。ロレツ回ってないし。だいたいそんなことしたって、また注ぎ足せば飲めるっつうの」
     夏目にノロケる気はさらさらないのだろうが、いつも彼が話すエピソードには市川の、夏目への愛情がひしひしと感じられ、その時の市川を想像する度にナリコが思うのはやはり『私もそんな風に想われたいなぁ』だった。
     夏目は気が付いていないかもしれないが、市川はよく夏目を見ている。
     夏目がテレビを見ていたり、ドライヤーで髪を乾かしていたりなど、夏目が市川を見ていない瞬間を縫うように、そっと遠慮がちに自分の恋人のことを愛しそうな目で見ているのだ。
     そして、そんな夏目への熱のこもった市川の眼差しを見るのがナリコはとても好きだった。
     よくテレビなどでスポーツの実況アナウンサーが、
    「いい顔してますね」
     なんて、選手のことを言うのを胡散臭く感じていたナリコだったが遂に、
    「イチさん、いい顔してるな」
     なんて思うようになってしまった。

     勢いに任せて始まった三人暮らしだったが、時を経るごとにナリコはこのゲイのカップルを愛おしく思うようになっていった。
     ふたりに愛しさを覚え始めた頃、ナリコは、ナリコ自身からふたりに向ける愛情のベクトルが違うことに気付き始めていた。
    『夏目ちゃんへの好きの気持ちは沙耶ちゃんへの気持ちと同じ種類の気がする。でも…』
     夏目の話す、市川に関する思い出話を聞くと、最初はただ単に、
    「仲いいなぁ」
     と、だけ思っていたのがいつの間にか、
    「私もそんな風にイチさんに想われたいなぁ」
     に、変わっていた。
     ナリコは、
    「もうしばらくは男を作る気もないしね」
     と、豪語してふたりと暮らし始めておきながら、密かに市川に恋をしてしまっていた。
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