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     今はあの頃よりも、もっとずっと広い家に引っ越して来て、そこに六人で楽しく住んでいる。
     これが一番ベストだろうと、みんなで決めた。

     しかし、市川さん。
     動揺のあまり避妊を忘れるなんて、やっぱりだらしないよ、市川さん。

     でも、もし俺がそう言うと
    「おんなじ事したお前にだけは言われたくないよ。バカッ」
     って、今回ばかりは言われちゃうんだろうなぁ。

                                    ー終ー
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      「ちょっとナリコ。何言い出すかと思ったら。もう。本気じゃないよね」
       自分でもなんて言えばいいかわかんなくて、冗談なら冗談にしようと思ってそんなことを言ってみた。
       ついでに、誤魔化せるんなら誤魔化したくて「へへっ」と笑ってみたけど、目に涙をいっぱい溜めながらキッとナリコが睨んでくる。
       ふぅーっとまたひとつため息をついた後、唇を真一文字に硬く結び顔を上げ、まっすぐ市川の目を見る。また新たにこぼれ始めた涙を拭いもしないでそのままに。
       本気じゃなかったら泣くわけないじゃん、と、でも言いたげに。
      「…」
      「…」
      「えー」
       ヤバイ。ナリコったら本気でした。
      「どう…しよう?イチさん」
       この状況をどうするの?
      「イチさん…」
       ちょっと、ちょっと。俺に委ねる感じ?
      「うーん」
      「イチさん?」
      「うーん…」
       今なら夏目ちゃんの気持ちがよく分かる。
       普段から再三イチさんのことを、「だらしないなぁ」と言っていた夏目ちゃんの気持ちが。
       でも、決めてよイチさんが。
       こんな私をどうするのか。
      「イチさんが決めてくれたらそれがいい」
       んー…。そう言われても…。参ったな。
      「ずるい言い方してごめん。でも、私はイチさんが決めたことを正解にしたい」
      「…」
       イチさん、悩んでる。そりゃそうだよね。ごめんね。
      「…」
      「…」
       そしてしばらくの沈黙の後、
      「…ナリコ」
       至極静かに市川が口を開いた。
      「はい」
       どうするの?イチさん。
       どうするんだろう?俺。
      「ちょっとこっち来て」
       吹っ切れたような真面目な顔を一瞬作って市川は、自分の膝をぽんぽんと叩いてナリコにこちら側に来るよう促した。
       もう、今この瞬間が夢なのか、現実なのかが分からない。
       熱のせいもあるかもしれないけれど、困窮の末黙り込んでいるふたりを中心に、この部屋の空気がものすごい早さでぐるぐると回っているように感じる。同時にその外側で、ものすごくゆっくり回っている空気も感じる。
       自分を呼ぶ市川の長い指を見つめながら、とにかくその空気の流れに任せてみよう、とナリコはぼんやり決断した。イチさんのすることが私にとっての正解だって決めたから。
       ついさっき市川が優しくかけてくれた布団からするすると這い出し、言われるまま膝に足をかける。知らない間に嗅ぎ慣れていた市川の香水の香りがナリコの鼻をかすめた。
       シトラス系でありながらもどこか甘さを感じさせるこの不思議な香り。この独特の香りが、ここにいるのは紛れもなく市川だということを強く示してきて、そしてその現実にナリコは改めてきちんとめまいを起こしそうになる。それで、なんとなく市川の腕に手を添えてみた。
       市川は、自らがナリコを呼んでおきながら、いざ触れられるとピクッと動揺してしまった。
       俺、なにをしようとしてるんだろう?
       でも…多分、決めたから。
       気持ちを落ち着かせ、少しためらってから「うん」と声に出して頷き、市川がナリコの両肩を掴む。そしてスローモーションのようなゆるやかさでナリコに口づける。
       初めはぎこちなく、お互い身を固くしていたが、徐々にその緊張は解けていった。
       だんだん荒い息が交差するようになる。
       ナリコを見つめる自分の視線が甘くなってくるのに気づいて市川は、
      「ナリコ…。俺…大丈夫かもしれない。ナリコなら…大丈夫かも」
       唇が触れる距離のままで丁寧にそう言った後、生真面目そうにキツくナリコに口づけた。
       その流れのまま手際よく、慣れた風にパジャマのボタンを外そうとしたけれど、突然告白された心の動揺の余韻がまだ残っていて、それと初めてナリコとキスした緊張のせいでボタンがうまくはずせない。もたつく俺の手元をナリコが、濡れた目で見るともなく見ているから余計にどきどきする。ボタンは諦めてそっと身体を横たえ、背中に手を滑り込ませてみる。その瞬間、今まで知り得なかったナリコの身体の柔らかさを初めて知って心臓が跳ねた。そして、ほとんど反射的にナリコを抱きしめてからもう一度言ってみた。
      「ナリコなら、大丈夫かも」
       ホントにそう思ったからそう言ったのに、ナリコは顔を背けながら、
      「あんまりそうは見えないけど…ありがとう」
       噛みしめるように時間をかけて言った後、さっきよりもっと激しく泣き出した。

       窓の外で紫陽花が揺れているのが見える。
       イチさんの身体と私の身体と同じ速度で紫陽花が揺れているのが見える。
       「ナリコ、何見てるの?」紫陽花。「アジサイ?」そう。イチさんがくれた紫陽花が咲いたの。やっと咲いたの。
       イチさんが、私のまつげの先に溜まった涙を長い指で拭ってほおをなでてくれる。
       その手首から痺れるような甘いシトラスの香りが改めて流れてくる。私は、その香りを全部吸うのはもったいなくてはばかられる…ほどイチさんのことが愛しいってことをもういっかい確認して、でもやっぱり自分の内に入れたくて、味わいながらゆっくり深く吸い込んだ。
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        「三十八度五分。めちゃめちゃ熱あんじゃん」
         体温計をケースにしまいながら市川が心配そうな目でナリコを見ている。
        「ごめ…イチさん…」
        「そんな、そんな。謝ることじゃないよ?」
        「ありがとう…」
         せっかくイチさんとふたりっきりなのに寝て過ごすのか…とナリコは心から自分の自己管理の甘さにガッカリした。
        「ナリコ。メロン食べる?」
        「うん、ありがとう」
         ナリコの布団の乱れを少し直して市川が部屋から去って行く。
         熱出しちゃったのは失敗だけど、こうやって優しくされるのはちょっと嬉しい。
        「なんで夏目はこんなにおいしいものを嫌うかなー」
         真ん中で二つに切られたメロンを皿に乗せて両手に持ち、市川がナリコの部屋に帰ってきた。
         半径のメロンがバランスを取れずにグラグラ揺れている。
        「イチさん、コレって…多すぎない?」
        「いいのいいの。一回やってみたかったんだよね。すごい贅沢でしょ」
         そう言いながらナリコのベッドに腰を下ろす。
        「ナリコ、起きれる?」
        「ん」
        「はいどうぞ」
         ぼーっとしたまま上体を起こして皿を受け取り、よく熟れた果肉にスプーンをツプッと刺し入れる。
         甘いメロン。のどごしがいい。
        「おいしいね」
        「はぁーーー。贅沢――。味がおいしいのもモチロンだけど、この贅沢な感じがたまらんよ」
         市川はしきりに、
        「贅沢だよー」
         を繰り返し、スプーンでどんどん果肉をすくっては大口を開け食べていく。ついでに目まで大きくかっぴらいて食べていく。
         しかしこの男は本当になんでも美味しそうに食べる。
         ナリコは改めて、
        『私、こういうとこも好きなんだよなー』
         と思う。
         贅沢を思う存分楽しむと市川は、ふたり分の皿を持って立ち上がった。
        「何かあったらさ、呼んでね。俺、下で仕事してるからさ。理科のテストの採点するんだ」
         そう言ってニコッと笑うと、部屋を後にしようとした。
         え、あ。待って。まだ行かないでほしい。
        「イチさん」
        「へ?何?」
         私は一体何を言おうとしてるんだろう?
        「その…何かがないとイチさんのこと、呼んじゃだめ?」
        「え?そんなことないけど。どうしたの?しんどいの?」
         しんどい?
         そうだよ、イチさん。私、ものすごうくしんどいよ。
         自分のしんどさに気付いた途端にもっとしんどくなってしまった…。
         はぁー…と大きなため息をついて、ナリコはうつむいた。
        「大丈夫?」
         心配そうな顔をした市川がサイドテーブルに皿を置き、もう一度ナリコの横に座り直す。
         氷枕、持ってこようか?ううん。何か、飲む?ううん。何を聞いてもナリコは首を振るだけだ。
        「とにかくさ、一旦寝よ?寝たらきっと楽になるからさ」
         なだめるように言ってみる。
        「違う、イチさん」
         そう言って市川を見上げるナリコの目が赤い。
         熱のせいで自分自身がコントロールできなくなっている。このまま、思いつくままに口を開けていくと、一体私からどんな言葉が飛び出すんだろう?
        「イチさん。ここにいてよ」
        「ナリコ?」
         市川には、ナリコが何を言おうとしているのかが分からない。でももう、このままでここからは去れないってことには気付いた。
        「どうしたの?ナリコ?」
         困った顔で、でもなんとなく笑ったような顔を作ってそう聞くしかなかった。
        「夏目ちゃんばっかりズルいよ、イチさん」
         耐えきれなくなった涙が遂にこぼれる。
         あー、私ってこんな感じだったんだ。ここで涙見せるなんて絶対ナシだ。
         でも熱で重くなっていた瞼は感情を抑えきってくれない。
         ダメだ。今泣いてもなんにもならない。いけない、いけない。
         そう思いながらもそれと同時に、ずっと我慢していた気持ちが弱った身体を伝って溢れてしまったことに、不思議と心地よさも感じていた。
        「ズルい?夏目がズルいってなんのこと?」
         市川の頭の中を混乱が駆け抜ける。
         夏目が?何の話?
         そしてナリコは泣いている。黙って次の言葉を待つほかない。
        「ナリコ?」
         イチさん、そんな優しい目で見ないでよ。そんな、夏目ちゃんに向けるような優しい目で…見ないで。
         鼻をぐずらせながらもナリコは続けた。
        「夏目ちゃんはズルいよ」
         だって、とナリコ。
         ずっと思っていて、でも今まで言い出せなかったことを遂に言ってしまう。
        「だって、いっつもいっつも、イチさんとヤってさ」
        「ふぇ?」
         思わず間抜けな声が出てしまう。市川は、驚いていつものように丸く目を見開いた。
         そして何かを言おうとするが、「え…」とか、「あ…」とかしか出てこなくて、あとはただただ口をぱくぱくさせるだけで言葉になってない。
         相当驚きつつも目は反らさずにナリコを見つめる。ことの真意を測るようにナリコの目の奥の表情を掴もうとするがやっぱり分からない。
         イチさん…。私、悪くないし。
         そんな優しい目をする、イチさんが悪いんだよ。
        「私だって」
         もう、知らないから。
        「私だってイチさんとシたい。私だってイチさんのこと、こんなにも好きなのに」
        「えぇっっ」
         告白されたのにすっとんきょうな声をあげてしまった。
         ナリコが俺のことを好き?
         え?ウソ?
         確かに今まで、っていうか俺を絵にした時に、もしかしてそうなんじゃないか?と、思ったことはあるよ?
         でもその時、ナリコはそのことを全否定したじゃん。
         だから、俺はその言葉を言葉通り今まで鵜呑みにして来て…。えー??
        「イチさんと、シたい」
         もう一度、ゆっくり確実に言う。聞き違いなんて思わせないために。
        「シたいって?ナリコ、それって…」
         吹っ切れたようにコクコクコクとナリコは頷く。
         でも何を?
        「まさかそれって、セックスのことじゃないよね」
         更に混乱してきた。
        「え?なんで?」
         だってナリコ知ってるよね。
         だって俺、ゲイなんだよ?
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           ある日夏目が、
          「弟の結婚式にちょっと行ってくるよ」
           と、実家に帰ることになった。
          「沙耶さんも連れて来なさい」
           との夏目母の強い要望で、沙耶も一緒に連れて帰るらしい。
           沙耶は、その夏目母に更に取り入るつもりらしく、夏目が以前なにげなく言っていた、
          「うちの母親、クリームパンがすげー好きでさ」
           を受けて、一時間は並ばないと手に入らない人気のクリームパンを遠くのデパートまで買いに行っていた。
           いつでも恋愛そのものにどこか冷めていた、以前の沙耶からは想像もつかないような頑張りだ、と、ナリコは思った。
           嬉しそうに戦利品を手にした沙耶は、
          「ナリコー、クリームパン買えたー。一個は一緒に食べよっ。うわー、見て、バニラビーンズがたっぷり入ってるー」
           なんて屈託のない笑顔を向けてくる。
           二つに割られたクリームパンからはバニラの甘い香りが広がっていた。
           そんな沙耶の頑張りをほおばりながら、
          「なんだか沙耶ちゃん、夏目ちゃんのことを好きになってから素直になったよね」
           と、言うと、
          「ちょ、恥ずかしいから言わないで」
           そうやって激しく照れていたけど、そんな沙耶をナリコはかわいいと思った。

           夏目と沙耶が発つ日、玄関先まで市川と一緒にふたりを見送る。
          「いってらっしゃい」
          「いってきます」
           ふたりが留守にするのは三日間。
           家を出て、少し歩き出してから沙耶がパタパタと引き返してきてナリコの耳元でささやく。
          「ナリコ、私たちが帰ってくるまで三日間、あんた市川くんとふたりっきりなんだし、うまくやりなよ。私はもちろん…キメてくるわ」
          「えっ」
           お互いの、色んな可能性を考えてしまって思わず赤面してしまう。
          「そんなドギマギしないの。ね?頑張って。じゃーねーっ。いってきますっ」
           自分自身を鼓舞するかのように元気にそう言うと、
          「早く行こうよ」
           と、急かす夏目の元へ沙耶は駆けて行った。
          「いってらっしゃーい」
           市川は、そんなふたりにのんきにひらひらと手を振っている。
           おいおい、イチさん。あなたの彼氏、沙耶ちゃんにめっちゃ狙われてますよ。
           そして、私はこれからの三日間をあなたと過ごすことにドキドキしてますよ。
          「ナリコ、今日は俺も休みだし、一緒に夕食の買い出しに行こっか?」
           こちらのドキドキも知らずに屈託のない笑顔で市川が誘ってくる…夕食の買い物にね。
           なに日常生活にドギマギしてんだ、私。
          「うわ、スーパーなんて来るの、スゲー久しぶりだよ。ちょっと、楽しくなっちゃうなぁ」
           三十路を過ぎたというのに、ショッピングカートを嬉々として押しながらスーパーではしゃぐ市川が愛しい。
           あぁ、ダメだ。
           益々ドキドキしてきた。ふたりっきりの三日間、蚤の心臓がもつ気がしない。
          「ナリコ、ちょっとコレ見て。まるいおにぎりに貼るとサッカーボールの柄になる海苔だって。すごくない?」
           次に絵画教室行く時はこの海苔貼ったおにぎり作って行こうよー。そう言って笑う市川の声がなんだか遠く感じる。
           ここのスーパーは従業員用の扉が所々鏡になっており、そこにふたりして並んで映るのがナリコは恥ずかしかった。
          『新婚さんみたい…』
           鏡に映る自分の顔が真っ赤なことも更に恥ずかしい。
           ナリコ、俺、メロンが食べたい。夏目がメロン嫌いだからいっつも遠慮してたんだよね。
           今夜イチさんと…ふたりっきりだ。どうしよう。なんか、力が入らない。
           ナリコ、ちょっと。俺の話聞いてる?
           ダメだ。改まってふたりだけになると、どうしていいかわかんない。外にいてこれでしょ?家に帰ったらどうすんの?一つ屋根の下に私とイチさんだけ?想像しただけで頭がボーッとしてきた。
           ちょ、ナリコ?目の焦点危ういけど大丈夫?
           え?何?え?イチさん、何?
           市川がおもむろにナリコの額に手をあててきた。
          「えー、ナリコ。何これ?オデコがスゲー熱いよ?」
          「へ?」
          「『へ?』じゃないよー。熱あんじゃない?もう帰ろう」
          「ちょ、イチさん。え?」
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             一緒に住んでからというものの、沙耶の頑張りはなかなか凄かった。

             少しでも夏目との距離を縮めようと、朝は毎日早起きをして夏目の朝食作りを手伝った。
            「あ、夏目くん。そこはもっとこうして…」
            「あぁ、そうすれば煮魚って、型くずれしないでもっと柔らかくなるんだー」
            「そうそう」
            「じゃあこれは?」
            「え?なに?あはははは。ちょっと夏目くん、何言って…あはははは。それは無理よー」
            「ふふふ。やっぱり?」
             朝食作りは夏目の癒しの時間で、もしかして一人で作りたいんじゃないかとナリコは思っていたが意外とそうでもなく、朝から楽しそうにはしゃぐふたりの声をナリコはよく聞いていた。
             ショップ店員と美容師という職業柄、髪や服装にこだわるのが好きなふたりは嗜好も似ていたので話が合ったのだろう。ナリコや市川にはさっぱり意味が分からないブランド名やカタカナのファッション用語が飛び交う会話を楽しそうによく交わしていた。また、「市川さんと行くと、すぐにもじもじしだしてゆっくり見られないし」「ナリコといくと服屋さんでつまんなそうな顔をする」けど「沙耶ちゃんなら靴一足見立てるだけでも納得いくまで一日中付き合ってくれるし」「夏目くんなら『これどう?』って聞いた時にプロの目から見た的確なアドバイスをくれる」ので、服なんかの買い物はこのふたりで行くことにしたらしい。
            「なんか夏目ちゃんも沙耶ちゃんも、どんどんキラキラしてくねー」
             楽しそうに今日買ったものを身につけて、今あるアイテムとどう合わせるかで盛り上がっている夏目と沙耶を眺めてほうじ茶をすすりつつ、ナリコがほうっとため息をつく。
            「ほんとほんと」
             同じようにナリコの横でお茶をすすりながら、分かっているのか分かってないのかうんうんと熱心そうに市川もうなずいている。夏目と沙耶はいつまでも交互に鏡をのぞき込んではきゃっきゃきゃっきゃとはしゃいでいる。
            「沙耶ちゃん、俺また髪切りたい。どんな感じがいいと思う?」
            「えー。夏目くんて実は長い方が似合うと思うんだけど。もう少しだけ伸ばして、そんでそれをキープしたらどうかな?」
            「そうだよ、夏目。お前長い方がいいんじゃない?」
             ほうじ茶をくちに運ぶ仕草を途中で止めて市川も、沙耶と夏目の会話に参加してみるが、
            「うっさいなー。市川さんには聞いてないよ。俺は沙耶ちゃんに聞いてるんだっつうの」
             そうあっさり一蹴されてしまう。
            「えぇ?たまには俺の意見も尊重してよー」
             セオリー通りにばたばたし出す市川に構わず夏目はナリコに話をふる。
            「ナリコは?俺やっぱ長い方がいい?」
            「うんー。私も夏目ちゃんは長めの方がいいと思うよー」
            「そう、じゃあ伸ばすことにしようっと」
            「もー、何それー…。何で俺の意見だけ無視しようとするんだよ?」
            「だってお前ダサイじゃん」
            「はぁっ?」
             市川と夏目の仲はと言えば相変わらず、分かりにくいながらも恋人同士だったし、何も問題はなかったけれど、沙耶が夏目によく話しかけるので、夏目と沙耶、市川とナリコ、という構図が出来上がることが多くなっていた。
             市川は、そんな状況を特に疎ましく思うでもなく、沙耶に嫉妬心を持つわけでもなく、よほど自信があるのか、ただ単におっとりしすぎているからなのかは分からないけれど、とにかくそんな状況を自然に受け入れていた。
             ナリコは、
            「これはチャンス」
             とは決して思わなかったが、やはり自分の好きな人とたくさん話せるのは単純に楽しい。市川と、今まで以上によく話をし、密やかな想いを満足させていた。

             最近ナリコは知り合いに頼まれて、毎週日曜日だけだけど近所のこども絵画教室で絵を教えている。小学生低学年の生徒にどう教えるか、はじめてのことに戸惑うナリコに現役小学校教諭の市川がアドバイスをくれる。
            「イチさーん。小さい子って、なかなか一つの作業に集中できないみたいなんだけどさ。どうやって教えていけば絵をもっと好きになって、いっぱい描けるようになれると思う?」
            「んー。こどもたちには集中することも覚えて欲しいけど、絵を描くことを続けて欲しいよね…」
            「そうなの。絵は楽しいって思って欲しいんだよね」
            「うーん。例えばさ、『おともだちの絵を描く』っていう授業があるとするじゃん?」
            「うん」真剣な目でナリコがうなずいたことを確認して市川は続けた。
            「その時に、一日中ずっと絵の具で描くだけじゃなくて、二枚目はクレヨンで描いてみたり、ちぎり絵で描いてみたりとか、一つの課題なんだけど、飽きないように何パターンも描き方を用意してみるかはどうかな?」
            「なるほど」
            「ナリコ、俺に絵を教えてくれたじゃん?いっぱい画材を貸してくれてさ。それがすごく楽しかったからさ、それっていいなって思ったの。ナリコの絵画教室、三十超えた俺が楽しかったんだもん。こどもならもっとだよ。ナリコなら上手に教えられると思うから自信持って頑張って」
             そういったアドバイスや励ましだけでなく、夏目が沙耶と出かけてしまって手持ち無沙汰な日曜日には「図工の指導の参考になるから」と、ナリコと一緒に市川も出掛け、絵画教室を手伝ってくれた。
             普段は夏目に翻弄されてばたばたしているのが市川らしい姿だったが、こどもたちの前では違った。
             放っておけば口々にポケモンがどうとかプリキュアがどうとか好き勝手に話し出すこどもたちでも、市川が「はーい。授業を始めますよー」と、ひとこと言えばサッと市川に注目し、「じゃあナリコ先生のお話をよーく聞いてねー」と言えば、声を揃えてかわいらしく「はーい」と答えるのだった。
            「さすが現役教師だね」
            「感覚で覚えちゃった。どんな声のトーンで、どんなタイミングで言えば聞いてくれるのか」
             それ以外でも市川は、途中で飽きだすこどもがいれば声をかけて一緒に制作し、けんかを始める子がいればすかさず仲裁に入り仲直りをさせたりと終始みなをきびきびとまとめてくれる。
             そんな風に、高すぎる背を一生懸命こどもたちの目線まで下げて「先生」している市川の姿は非常にひたむきで頼もしく、ナリコは「ヤバイヤバイ。また好きになっちゃうよ」と焦りながらも市川を想うことを楽しんでいた。たまにマセたこどもがナリコのもとにやってきては市川を指し「ナリコせんせいのこいびと?」と聞いてくるので「ちがうよ。あのひとはおともだち。せんせいのこいびとじゃないよ」と否定しなくてはならず、その度にそっと小さく傷ついたが。

             そして家では、一時は揉める原因になってしまったから、と、いう理由で市川の絵を描くのをやめていたナリコだったけれど、夏目が、
            「ナリコ、もう市川さんのスケッチはしないの?」
             と、遠回しに『もう気にしてないよ』と、知らせてくれたので、また最近は市川のスケッチを再開した。
             前と違うのは、市川がナリコのスケッチを始めたことだ。
            「だって、ポーズ取ってるだけなんてヒマじゃん?それに俺、ナリコの教室手伝ったりしててさ、絵を描く楽しみに目覚めちゃったんだよねー」
             ふたりのスケッチブックに、スケッチブックとペンを握りしめたお互いの絵が増えていく。
             ナリコは、「この状況にときめくことだけ許して下さい」と、心の中で思っていた。

             毎朝欠かさず市川からもらった紫陽花の鉢植えに水を与える。
             日ごと市川を想ってしまうナリコの気持ちに比例するかのように、紫陽花は益々育っていく。
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              「と、いうわけで。新メンバーの沙耶ちゃんに、かんぱーい」
              「かんぱーい」
               ナリコが乾杯の音頭をとると市川と夏目がビールの入ったグラスを高く上げる。
              「よろしくね」
               沙耶が挨拶した。
               今日の晩ご飯は手巻き寿司。市川はアジやサバなどの背の青い魚を好む。夏目は生魚が少し苦手らしく、ツナマヨネーズや生ハムにばかり手が伸びている。沙耶はサーモンやハマチなど脂ののった魚を、ナリコは明太子やイクラ、数の子などの卵類を好んだ。好みがバラバラの四人は気ままに自分の好きな具をそれぞれ楽しむ。
               ビールは常備あるけれど、魚に合わせて白ワインも買ってきた。下戸の市川とナリコに比べて、夏目と沙耶は本当によく飲む。
               その白ワインも、市川とナリコは舐める程度だったけど、夏目と沙耶がどんどん飲むからとっくにカラになってしまっていた。
              「いいなぁ…。お酒強くて」
               あらかた食べ終えて、夏目と沙耶は、ナリコが沙耶に引っ越し祝いで贈った日本酒をふたりでくいくい飲んでいる。
               そんなふたりを見ながらナリコは市川と、市川の入れてくれた紅茶を飲んでいる。
               お酒が好きで、屈託のない気ままなふたり。
               案外早く、沙耶の願いは叶うんじゃないか?と感じていた。

               でも、それは、もしそうなれば、イチさんは一体どうするんだろう?
               それで、私は?
               私とイチさんはどうするんだろう?
               先のことを思って心乱れてしまう時、ナリコは市川から貰った紫陽花の鉢植えをスケッチすることで心を落ち着かせる。まだ花が咲くには少しありそうだけど、それでも描く。緑色だったつぼみが徐々に薄青くなってきた。
               紫陽花は、ナリコの想いを吸収するかのように育っていく。
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                「沙耶?いいよ、いいよ。全然いいよ。な?夏目?」
                「うんうん、いいんじゃない?楽しくなるね」

                 今日の晩ご飯はふたりの好物であるイタリアンをたくさん作った。量だけじゃなく、内容にも凝ったつもりだ。
                 前菜はズッキーニと生ハムのサラダ。いわしのレモンマリネ。メインに豚ヒレ肉のカツレツ。カツレツにはトマトとルッコラ、マリネで余ったレモンを刻んだものを添えてさっぱり食べられるようにした。パスタも張り切って二種類。クレソンとゴルゴンゾーラのクリームソースペンネ、そしてイイダコのトマトソースタリアッタレを用意した。
                「今日は凄いね、ナリコ。どうしたの?」
                 いつになく豪華な晩ご飯に、喜びながらも訝しがるふたりに、
                「ちょっとね」
                 などと言いながら、ナリコはグラスにワインを注いだ。
                 そしてフルコースを食べ終え、最後にデザートの、バニラビーンズを贅沢に使ったパンナコッタを出しながら遂に、
                「ちょっと話があるんだけど」
                 と、切り出したのだった。
                 そんな改まったナリコに、「一体何を言い出すんだろう」と、最初は身を硬くして構えていた市川と夏目だったけれど、
                「沙耶ちゃんに、二階の空いてる部屋、使ってもらってもいいかな?」
                 の問いに、
                「なーんだ。いいよ」
                 気の抜けたように、あっさりそう答え、快諾したのだった。

                 もちろん沙耶が夏目を狙って引っ越してくるなんて言わない。彼氏と別れてしまい、思い出の多すぎる部屋にいられないのだ、などと言っておいた。ナリコは一応、沙耶の親友としての役目を果たした格好になる。
                 でも、これで良かったのかな…とも思っていた。
                 大体ノリで市川と夏目と住むことを決め、図らずもこんなややこしい恋を始めてしまったのがそもそもの発端だけれど、夏目を狙っている沙耶が引っ越してくるのを手伝った、ということは、ナリコは市川にとってのライバルを応援していることになる。で、その市川を、狙ってないにしても想っているナリコは夏目のライバルにあたるのだろう。どの形が正解だとかは分からないけれど、今はともかくこんな変な構図が出来ている。そして、そんな毎日は…実はなかなか暮らし甲斐がある。

                 パンナコッタを口に運びながらそんな事をとりとめもなく考えていたナリコに、コソコソと何かを夏目とささやき合っていた市川が遠慮がちに聞いてきた。
                「あのさー、ナリコ」
                「ん?」
                「あのー、非常に聞きにくいことなんだけど」
                「何よ?」
                「あー…。ダメだっ」
                「へぇ?」
                「もー…。ほんっとに市川さんはだらしないなぁ…」
                「ごめん、夏目。お前から聞いてよ」
                「仕方ないなぁ…」
                 呆れた顔で夏目が市川を睨んだ。
                「ん?なに?夏目ちゃん」
                 沙耶のことを快諾してくれたことに感謝して、やさしく微笑みながら聞いてみる。
                 夏目の顔は至って真面目だが、おもむろに開いた口から飛び出した言葉は、
                「ナリコと沙耶ちゃんってデキてんの?」
                 だったから、
                「はぁっ?」
                 と言ったきりナリコは言葉を失ってしまった。
                 そんな真剣な顔をして、何を聞くかと思ったら…微笑み返せっ。
                 バツが悪そうに、でも若干ニヤけながら市川は頭をかいている。
                「いやー、その。ナリコと沙耶ってあんまりにも仲がいいからさ、もしかして、と、思ってさ」
                「コソコソなに話してんのかと思ったらそんなこと言ってたわけ?」
                「うん」
                「なーんだ、違うのかー」
                 と、悪びれもせずにむしろがっかりしたような夏目。
                「バッカじゃないのー?みんながみんな、同性愛者だと思わないでよっ。ホモッ」
                「えーっ。何それー。友達のことをホモ呼ばわりするなんてひっどーい。せめてゲイっていってよ、ゲイって。差別だぁー」
                 市川と夏目が笑いながらわあわあ言ってくる。
                 そんな風にくだらないことを言いながら夜が更けていくのもナリコは、
                「大いにアリ。アリアリだ」
                 と楽しく思っていた。
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                  「彼氏と別れた」
                  「えーーーーっっ」
                   待ち合わせたカフェに、遅れてきた沙耶が席に着くなりそんなことを言い出すものだからナリコは、大声をあげてしまった。飲みかけのマンゴーラッシーを吹きそうになって慌てる。
                   周りの人が何事かとふたりを振り返った。
                  「ちょっとナリコ…」
                   沙耶がナリコを諌める。
                  「ご、ごめん。でも沙耶ちゃん、別れたってそれって」
                  「ほんと、ほんと」
                   億劫そうに沙耶が答える。
                  「えー。なんでまた?」
                  「好きじゃなくなったから」
                  「好きじゃなくなったって…でも」
                   同棲までして、あんなに楽しそうだったのに。
                  「ナリコ、それおいしそうね」
                  「う…うん。おいしいけど…」
                  「じゃあ、私にも同じものをください」
                   水とおしぼりを運んできた店員にそう告げると、カチッとたばこに火を付け、ふーっと紫煙をはき出し沙耶は、だって、と、続けた。
                  「だって、他に好きな人ができたからさ」
                  「えーーーーっっ」
                   そんなことをあっさり言うからまたもやナリコは、大声をあげてしまった。
                   そして周りがまた振り返る。
                  「ちょっと…」
                  「ごめん沙耶ちゃん」
                   そう謝りながらも、ここは聞いておかないと、とナリコは沙耶にたずねてみた。
                  「他に好きな人って…誰?」
                   まさか、まさか。
                  「夏目くん」
                  「あ…あぁ」
                   やっぱり。
                   ふーん、と妙に納得した顔でナリコが落ち着き払っているから沙耶は拍子抜けしてしまった。
                  「へ?そこは驚かないの?」
                   大げさに肘をがくっと落として沙耶が笑う。
                  「まぁ、まぁ、そうじゃないかと」
                  「え、えー。バレてたの?あー、やだやだ」
                   沙耶は恥ずかしそうに手で顔をパタパタと仰ぎ、そっぽを向いてたばこをふかしている。
                  「ふふふ」
                  「何よ?」
                   沙耶がキッと睨んでくる。
                   いつもはナリコが言いだした事に沙耶がすかさず突っ込みを入れてきて、それにナリコがたじろぐのがふたりの常であったから、今は形勢が逆転しているのが楽しくて思わずニヤニヤしてしまう。
                  「沙耶ちゃん、それってさぁ」
                  「待って、皆まで言わないでっ。『不毛だよね』でしょ?知ってるっ」
                   まだ長いたばこを灰皿に荒く押し当てて火をもみ消し、ムキになって自ら先に言ってしまう。沙耶には珍しく耳まで真っ赤に染めながら。
                  「なっかっまっ。なっかっまっ」
                   頭を軽く左右に振り、変なリズムをとりながらナリコが茶化す。
                  「あー、うるさーい」
                  「へへへ」
                   もしかしたらこうなるかも、とは思っていた。
                   沙耶と夏目は気が合いすぎる。
                   夏目が沙耶のことをどう思っているかは分からないが、気に入っているのは確かだ。
                  「こないださ、夏目くんの彼女の振り、したじゃん?」
                  「うんうん」
                  「その時ね、気付いちゃったんだ。あんまりにも自然に夏目くんの彼女として振る舞える自分にね、気付いちゃったんだ」
                  「夏目ちゃんのことを好きってことに?」
                  「うん」
                   寂しそうに笑う沙耶。
                  「それで、悲しかったの。これがただの『偽り』なんだっていうことが悲しくってさ。それで、分かったの。私、『本物』になりたいんだって」
                  「…そうなんだ…」
                  「それでさ、私…考えたんだけど」
                   新しいたばこを引き抜き、火を灯しながら沙耶が続ける。
                  「うん、なに?」
                   神妙な顔で次の言葉を待つナリコ。
                   ふーっと煙を吐き出し、一呼吸おいて沙耶が言う。
                  「ナリコんちに住んでもいいかな?」
                  「えーーーーっ」
                   もう周りが振り返っても知らない。
                   沙耶ちゃんがウチに住む?ビックリした。
                  「なんで?なんで?」
                   紫煙をはき出し、ワザと悲しそうな目を作り、もう一度ふーっとため息までついて見せて沙耶が言う。
                  「帰る家が…ないのよ」
                  「ウソ」
                   こんなすぐにバレるウソ、初めて聞いたよ。
                   だって、元々沙耶ちゃんが一人で住んでたとこに彼氏が転がりこんで来たんじゃん。彼氏に出てってもらえばいいじゃん、と、ナリコは反論する。
                  「だから…」
                   ツヤツヤにグロスが塗られた沙耶の唇がゆっくり上下する。
                  「もうとっくに彼には出てってもらったのよ」
                  「じゃあなんで…」
                   何かを言いかけるナリコの言葉を制して沙耶が言ってくる。
                  「そのテイで、帰る家がないテイで、ナリコんちに住ませて欲しいのよ」
                   イライラと灰皿に押しつけられたたばこのフィルターが歪む。
                  「はぁ…」
                  「ナリコはさ、『夏目くんを好きな市川くん』が好きなわけでしょ?」
                  「う、うん…まぁ…」
                  「私はそうじゃないわけ。私はそこで満足しようとしてないわけ。夏目くんとどうにかなろうって思ってるわけ。だからこのチャンスを逃がしたくないのよ」
                  「は…はぁ…」
                   そうですか。
                   沙耶ちゃんのアクティブさにはホント頭が下がるよ。
                  「ナリコの隣の部屋さぁ、二階の。あそこさ、物置状態になってるんだよね?あの部屋貸してくれない?」
                  「え?えー…」
                  「お願いっ。これって、ナリコにとっても悪い話じゃないと思うのよ。私が家事を手伝えばさ、ナリコ。その分の時間でもっともっとたくさん絵を描けるよ?」
                   うっ。それはかなり魅力的かも…。
                   ナリコが一瞬ひるんだのを見て沙耶が続ける。
                  「もし私が夏目ちゃんとどうにかなったらさ、ナリコも市川くんとどうにかなれるかもよ?」
                  「え?」
                   ナリコの顔が一瞬にして険しくなった。
                  「そんなのいらないっ」
                   間髪入れずに言い返す。
                  「ヤだよ沙耶ちゃん、あのふたりを別れさそうとするのはヤだよ」
                   ナリコは市川に恋をしている。それは確かだ。でも、その想いとは別で、市川と夏目のことを友達として大切に思っている。そのふたりが傷付くことになるのは嫌だ。この感情は矛盾しているかもしれない。そのせいでついこの間、ふたりを喧嘩させてしまった。でも、それが例え沙耶であっても、あのふたりを別れさそうとするのはだめだ、とナリコは強く思った。
                  「ナリコ…」
                  「ごめん…、沙耶ちゃん」
                  「ううん、私こそ調子に乗っちゃってごめん」
                   ちょっとしゅんとして、でもしっかりとナリコを見つめて沙耶はもう一度口を開いた。
                  「でもね、ナリコ。私が自分の恋を頑張るのは許して欲しい」
                  「沙耶ちゃん…」
                  「私もナリコと考えは一緒だよ。決してふたりを別れさせたいんじゃない。でも、夏目くんが私を好きになってくれるように、私が頑張るのは認めて欲しい」
                  「…それは…私が止めることじゃないもん」
                   沙耶ちゃん、本気なんだ。
                  「ね、だからお願いナリコ。この通り。一生のお願い」
                   そういうことなら…認めてあげたい。
                  「う…ん。分かった」
                  「ほんと?やったーーーっ」
                   サンキューナリコッ。そう言いながらナリコの手を取り、キャッキャ、キャッキャとはしゃぐ沙耶を、またまた何事かと周りが見ている。
                   沙耶の分のマンゴーラッシーを運んできたウェイトレスも訝しげにそんなふたりを見ていた。
                  「でも、私一人じゃ決められないからね?イチさんと夏目ちゃんに聞いてからだよ?ちゃんとふたりに了解取ってから、ね?ね?」
                  「分かったー」
                   にこにこしながら沙耶が頷く。
                   まぁ、あのふたりならアッサリ快諾しそうだけど。
                   ナリコが承諾したその後も沙耶は、
                  「やったー、嬉しいー」
                   と、ずっと喜んでいた。
                  「そんなに嬉しい?」
                  「もちろんよ」
                  「ふーん…」
                  「そりゃさ、夏目くんのこともそうだけどさ…」
                  「うん」
                  「それとね」
                   ふふっとやわらかく笑って沙耶が言う。
                  「私、単純にあの家のメンバーになりたかったのよね」
                  「えぇ?」
                  「楽しそうなんだもん、ナリコんち。嫌なんだよねー。あのー、あれ」
                   彼女のプライドがそうさせるのか、沙耶はしばらく言いにくそうにしていたが、
                  「四人で楽しく飲んだ後、当たり前なんだけど私だけが違う家に帰るでしょ?あれがほんと、毎回キツかったっていうか、寂しかったっていうか…」
                   そう正直に言ってしまう。
                  「ちょ…沙耶ちゃん…」
                   人が素直な気持ちを見せた時、そのかわいらしい気持ちにナリコは涙腺が緩みがちだった。
                  「うぅ…」
                  「あはは、なんでナリコが泣くのー?」
                   そう言う沙耶も、自分の気持ちを素直に口に出来たことにほっとしたのか、心なしか目が潤んでいる。沙耶は「正直になるのも悪くない」と、思っていた。
                  「だって、沙耶ちゃんがそんなかわいいこと言うんだもん」
                   鼻をぐずらせ紙ナプキンに手を伸ばしながらナリコが答える。
                  「なによー?私がいっつもかわいいこと言ってないみたいにー」
                   口をとがらせて文句を言う沙耶に、笑い泣きしながら鼻をかんだ後で、ナリコは言った。
                  「いっつも…言って…ないよー」
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                     沙耶ならうまくやる。うまくやるとは思っていたが、まさかこれほどまでとは。

                    「今までご挨拶に伺いもせずに大変失礼致しました」
                    「お会いするまでは少し緊張していたんですが、お母様がとても楽しいほがらかな方で私、ほっと致しましたわ」
                    「どうしてこんなにも祐さんが穏やかいらっしゃるのか、きっとお母様が穏やかな家庭を作っていらしたからだと、今日確信致しました」
                    「祐さんのような素敵な方との将来を、わたくし自身大変楽しみにしておりますの」

                     夏目の母親が気に入りそうなことを次から次から言って見せたらしい。
                     沙耶のことをすっかり気に入った夏目母は、
                    「なるべく早く、祐と沙耶さんの子どもを抱っこさせてね」
                     と、まで言って満足げに帰って行ったらしい。
                    「もー、あの時の沙耶ちゃんってば、最高だったよー」
                     沙耶の女優っぷりを見せつけられた日から、夏目はますます沙耶を気に入ったらしい。
                     何かにつけては、あの時の沙耶の振る舞いがどれほど素晴らしいものだったかを話すようになっていた。
                     そして、
                    「ナリコに代役を断られて、正解だったよ」
                     と、まで言ってくる。
                    「なによー、夏目ちゃん。ひどーい」
                     怒って見せながらも笑いつつ、夏目の前にコーヒーを置く。
                    「でも、うまくいってよかったね」
                    「ほんとほんと」
                     くるくるとまぜたコーヒーにミルクを注ぎ、きれいにマーブル状になっていくのを眺めながら上機嫌で夏目が笑う。
                    「なんだよ、夏目。沙耶のことばっか褒めて…」
                     コーヒーにいれた粉砂糖を必要以上にグルグルかき混ぜながら市川が拗ねて見せるが、
                    「なに言ってんの、市川さん。沙耶ちゃんのお陰で俺ら、別れなくて済んだんだからね?」
                     そう言われてしまえば、
                    「う…うん…」
                     黙り込むしかない。
                    「うまく言ったお祝いに、今日も四人で飲みに行きますか」
                    「えー。また今日もお祝いするの?」
                     呆れたように市川が言う。
                     夏目が言う『お祝い』は、もう今日で三回目だった。
                    「いいじゃん、別に」
                     さ、行こう、今日は俺が奢るからさ。そう促されてしまえば立ち上がるしかない。
                     夏目はもう沙耶に電話をかけている。
                    「そう、今から。来れる?オッケーイ」
                     でも四人で飲むのは本当に楽しいことだからナリコは、
                    「まったく夏目はー」
                     と呆れる市川を「いいじゃん、早く行こうよ」と促しながら、
                    『新しいサンダルをおろして行こうかな』
                     と、密かにわくわくしていた。
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                      「どうしよう、ナリコ。ピンチだよ」
                       夏目が泣きそうな顔でナリコにすがりついてくる。
                      「え?何?どうしたの?」
                      「田舎の母さんが『彼女に会わせろ』って言ってる」
                      「えーっ。それってなかなかヤバいじゃん」
                      「でしょ?でしょ?マジやばいわー。どうしよう?」
                       そう言いながらもどこかはしゃいでるふたり。
                       ちょっとしたぎくしゃくがあったからこそより一層、ナリコたちは仲良くなっていた。
                       色んな気まずさを共有していく課程で、絆ってものは生まれていくのかもしれない。
                      「どうすんの?夏目ちゃん」
                      「ねー、どーしよーねー?」
                       三十路にもなって、まだまだ結婚する気配のない夏目に地元での見合いを勧めてきた夏目母。
                       そんな母親に夏目は「俺にも決まった人がいるんだよ」と、つい言ってしまったのだ。
                       もちろんそれが市川…男だなんてことは言えない。
                      「イチさんはなんて?」
                      「市川さん?市川さんなんて全然ダメだよ。このこと話したら俺以上にテンパっちゃって、もう無理って感じ。うちの母親にカミングアウトして会わせるような状態じゃないね、あれは」
                      「そっか…」
                      「それでさ、俺、考えたんだけど、とにかく家には来させないようにするからさ、ナリコ。俺の彼女役をやってくれない?」
                      「えーっ。代役を立てるってこと?」
                      「そうそう。無理かな?」
                       もちろん夏目の頼みなら聞いてあげたい。でも、
                      「お母さん、いつ来るの?」
                      「次の日曜日」
                      「あー…。だめだ、夏目ちゃん。私、月曜日が原稿の締め切り日で、その前日に穴開けるのなんて本当に無理なのよ、ごめん」
                      「うわー。そっかー。どうしよう?ヤバいなー」
                       文字通り頭を抱える夏目を見ながらナリコは思いつく。
                      「あのさ…。こんなのはどう?」
                      「え?なになに??」
                       どんな名案が出てくるのだろうかと目を輝かせて聞いてみれば、
                      「えーっと…。イチさんに女装させ…」
                       全部言い終わらないうちに夏目がバシッと頭を軽く叩いてくる。
                      「何言ってんだよー。ただでさえデカい俺より更にデカい女って一体なんだよ?」
                      「あはは…。そりゃそうだ」
                       こうなったら頼めるのは、
                      「夏目ちゃん、沙耶ちゃんは?」
                      「沙耶ちゃん?」
                      「そう。代役のお願い、沙耶ちゃんにしてみたら?」
                      「沙耶ちゃんかー。あー…、でもなー」
                      「え?何かマズい?」
                       見た目や性格の感じ、私より沙耶ちゃんの方がよっぽど夏目ちゃんと自然に釣り合って見えるんだけど?と言うナリコに、
                      「沙耶ちゃん、彼氏がいるんだよ?」
                       あきれた顔で夏目が返してくる。
                       夏目も市川も、そして一番長い付き合いのあるナリコまで時々忘れそうになるが、沙耶には同棲している彼氏がいる。
                       普段当たり前のように、あまりにも四人で飲むことが多いから、すっかりその彼氏の存在を忘れていた。
                      「あー、そうだったー…。彼氏に申し訳ないかー」
                      「だろ?」
                      「んー。だけど、もうこの際思い切ってお願いしてみようよ」
                      「うん…。うん、そうだな」
                       でもー、たぶん無理って言うよー。
                       だとしても一回頼んでみるしかないって。
                       ナリコに促された夏目は沙耶に電話をかけ、事情を話す。
                      「でさ、沙耶ちゃん。俺の彼女役、お願いできるかな?…って、無理…だよね?」
                       突然の、この夏目の申し出に、
                      「え?なんで?全然いいよ。やらせてもらうわ」
                       二つ返事であっさり沙耶は快諾した。電話の向こうでカサリと、沙耶がスケジュール帳をめくる音が聞こえる。
                      「その日はお客さまからの指名も入ってないし、有給もたくさん残ってるし、お店に言って休みとらせてもらうから大丈夫。やらせていただくわ」
                       と、超乗り気だ。
                      「いや、お店の都合ももちろんそうだけどさ、彼氏は?彼氏は怒らない?いいの?」
                      「いいの、いいの彼氏のことは。それよりもさ、私がやってみたいのよ。だって、それってすっごく面白そうじゃん。なんか私、オファー受けた女優みたいじゃない?ちょっとね、そういうこと、やってみたいのよ」
                       沙耶がアクティブな性格で助かった。
                      「じゃあ、今から早速、細かい設定とかの打ち合わせしたいんだけどさ、いいかな?」
                      「あぁ、ふたりのなれそめとか決めなきゃね。わー。面白そう。いいよいいよ、やろうよ。それに私、今ちょうど飲みに行きたいと思ってたのよねー、夏目くん?」
                      「分かりました、沙耶さん。今日はとことん俺が奢りますっ」
                       そんなやり取りをして、
                      「ナリコ、サンキュー」
                       夏目は楽しそうにいそいそと出掛けていった。
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