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     午前三時。ふと喉の渇きを覚え、目が覚めた。
    「いつの間に寝てたんだろう」
     ナリコはぼうっとする頭で今日一日のことを思い出していた。
     夕方頃からお酒を飲み出したのは覚えている。
     駆け出しのイラストレーターであるナリコは今日も一日中、自室兼仕事場であるこの木造借家の二階の自室で絵を描いていた。
     今し方「描いていた」とは言ったが、今回の依頼は「迫力あるロケットの絵を」というもので、人物画を得意とするナリコはいきなり描いてくれと言われた無機質物体を一体どう描けばいいのか、ただただ悩んでいただけだった。
     だから正しく言えば「一日中悩んでいただけで結局絵は一枚も描けなかった」となる。
    「なんで私の所にこんな依頼が…」
     訝しげに思いつつも「無機質なモノは苦手だから」という理由だけで仕事を断るような考えは、どんな仕事でも受けたい新人のナリコには毛頭ない。それで、二つ返事でこの依頼を引き受けたのだ。描き上がった絵は、雑誌の特集記事(ファッション誌の美白特集。そこになぜロケットなのかを編集者に聞くと「『2007年美白の旅』というコンセプトなんです」と誇らしげに言われてしまった)の扉ページになるらしく、ギャランティだって悪くはなかった。
     しかし、得てして絵作りというものは頭に思い描くようには実際出来ないもので、ましてまだまだイラストレーターとしての経験が浅いナリコがその例外であるはずもない。
     それでも自分は描けると思いたいし、一旦プロとして依頼を引き受けたからにはどうやっても今回のクライアントである編集部が納得のいくロケットを描いて、期日までに提出しなくてはならない。
     何度も何度も、脳裏に浮かぶロケットの像をどうにか掴み取り、そのまま指先から紡ぎ出そうとしてみる。だが、なかなかその作業は思うようにはかどらなかった。ナリコの脳裏にははっきりと描くべきイメージが見えている。そのイメージをただ単に紙に写し取るだけだ、と思う。だが、実際描いてみるとどうもしっくりこないのだ。
     こんな絵が見たいんじゃない。違うこんな絵じゃない。
     どう奮闘しても、脳裏に浮かぶものとはほど遠い駄作ばかりが、机に置かれた紙の上に表れてくる。自分のこの身体の中で、はっきりとロケットを映し出している脳味噌とそれを描けない指先は、はたして本当に繋がっているのだろうか、と疑いたくなってくる。
    「あぁ、なんで出来ないんだろ」
     少し手をつけてはため息を繰り返すばかりで時間ばかりが過ぎてゆく。
    「ちょっと…気分転換にお酒でも飲んでみようかな」
     脳裏のイメージに手を伸ばすことに見切りをつけたナリコはペンを置いた。
     普段は仕事にキリがつくまでお酒を呑むことなんて思いつきもしない。
     だけど今日はちょっと気分を変えないと。
    「描けないスパイラルにハマりこんだんだよ。ここから抜け出す為に百薬の長の力を借ります」
    ナリコは自分で自分に言い訳をした。

     「飲む」と言っても酒にはてんで弱い両親のDNAをしっかり継いでいるナリコのこと。寝不足で飲み会に行って、帰りの電車の中で気を失った経験を持つことからも、自分が酒にとことん弱いのは身をもって分かっている。
     だからほんの少し、香りを楽しめるウィスキーを舐める程度にするつもりだった。
     なのに気付くと眠っていた、なんてことになるほど飲んでいた。
    「二十八歳にもなって、何やってんだろ私…」
     少しズキズキする頭を押さえる。
    「でも、あ。そうだ、あの時」
     と、ナリコは思い出す。
    あの時イチさんが夏目ちゃんの話をしてきたんだ.。

     市川保(たもつ)と夏目祐(ゆう)。
     この、三十路を迎えたばかりと、もうすぐ三十路のゲイのカップルと同居してみようと思ったのは、最初は本当にただの好奇心からだった。
     元来、
    「おもしろけりゃいいじゃん」
     と、いう、ふざけた気質を性格のベースに持つナリコは、
    「友達に話したときにウケればいいや」
     ぐらいの軽いノリでこの話を受けた。
     それは、恋人に振られてしまって落ち込んでいるナリコを励まそうと友人の沙耶が飲みに誘ってくれた時の話だ。
     その恋人とは七年も付き合っていたのに、
    「お前との将来が想像できない」
     と、いう、漠然とした理由でふられてしまった。
     その行き場のない喪失感で少しやさぐれた気分になっていたのも手伝ったのだろう。酒の肴に沙耶が何気なく言った、ゲイのカップルと同居してみないか?との提案に乗ったのだ。
    「あのさ、ナリコ」
    「ん?」
    「私の友達に、市川くんっていうゲイの男がいてさ」
    「ゲイってみんな、男でしょ?」
    「もうっ、うるさいっ。最後まで聞いてっ」
    「はーい」
     ヘラヘラしながら返事するナリコ。相当顔が赤い。
    「で、その市川くんさ」
    「うん」
    「彼氏と住む部屋探しに困ってんのよ」
    「ふーん」
    「それでさ。ねぇ、ナリコ。そのふたりと一緒に住んでみない?」
     沙耶はほとんど冗談のつもりだったし、えー、やだよ、と、言うナリコの反応を期待してそう言ったのだが、
    「お、いいね。そうしよう。その市川くんとやら。彼氏と一緒にウチに住めばいいじゃーん。それってすっごく、いいじゃーん」
     沙耶の意に反してナリコはあっさりその提案を承諾してしまったのだ。

     実際、ゲイのカップルの部屋探しは相当大変らしい、というのは何かの雑誌で読んだ事はある。
     女のふたり暮らしのたやすさに比べ、男のふたり暮らしを受け入れてくれるような寛容な大家さんはなかなか見つからないらしい。ナリコが読んだその記事に出てきたゲイのカップルは養子縁組を組んで名字を同じにし、
    「兄弟です」
     と、ウソをつくことで、ようやく部屋を借りるところまでたどり着いていた。

    「ウチんち、一階部分はほとんど使ってないんだよねー」
     少しロレツの危うくなってきた舌でナリコは続けた。
     もともとナリコの住む木造二階建ての古い借家には、いとことふたり暮らしをしていた。しかしそのいとこのお姉ちゃんが最近地方に嫁いでしまい、引っ越す資金もないナリコは今まで折半していた家賃を全額払うことでそのまま今の借家に住み続けていたのだ。
    「会ったこともない、しかもゲイのカップルだよ?一緒に住んでもいいって、それほんと?」
     訝しげに沙耶が聞いてくるが、
    「うーん…ほんとっ」
     と、ナリコは陽気に答えた。
     自分から打診したものの、ナリコがとことん酒に弱いことを知っている沙耶は、こんな話を飲みの席で進めて良いのかな、と、ちらりと思ったが結局ただ思っただけで、更に話を進めてみることにした。
    「私もさ、市川くんとは知り合いだから、市川くんがすっごくいいヤツっていうのは自信持って言えるんだけどさ、その彼氏には会ったことないんだよね。それでも…いいの?まぁ、その彼氏も、市川くんの話からと、写真から察する限りはいい子そうだったけど…」
     その時沙耶は、以前市川がニヤニヤしながら見せてきた携帯電話の電池パックに貼られた、市川と市川の「彼氏」のプリクラを思い出していた。痩せ型で長髪。黒目がちの瞳を持つその「彼氏」のことを「なんだか女の子みたいな男の人なんだね」と、沙耶はからかって市川にそう言ったのだが、市川は「うん、夏目は本当に…かわいいんだよ」と、勝手にいい意味に解釈して勝手に一人で照れていた。
    「ウチはさ、ほら、最近彼氏と住み始めたばっかじゃん?だからちょっと一緒に住むのは厳しいんだよね」
     まぁ、どっちにしろワンルームだから無理だけど、とも付け加えた。
    「ナリコ。それって本気の本気?ほんっとにいいの?決めちゃっていいの?」
    「ええ?いいよー。付き合いの長い沙耶ちゃんの友達ならたぶん大丈夫。その市川くんとやらの彼氏が『いい子そう』っていう沙耶ちゃんの直感も信じちゃう。大家さんには何年も会ってないから、誰と住んでても家賃さえキッチリ振り込んでれば何もバレないし何も言われないよ。私も誰かと住んだ方が経済的に助かるしさ」

     酔いの勢いに任せて同居を快諾したナリコだったが、
    「誰かと住んだ方が経済的に助かる」
     と、いうのは本心だった。
     恋人には振られてしまったが、それに反比例するかのようにイラストの仕事依頼は徐々に増えてきていた。しかしまだまだそれだけで食べて行くにはナリコは新人すぎる。
     その上、家賃もいきなり今までの倍払うことになってしまったのだ。それで仕方なく増やしてしまったバイトのせいで最近では絵を描く時間もうまく取れず、ナリコはそのことで悩んでいた。
     また誰かと住めるなら、絵の仕事だけでなんとかなるだろう。
    「それに」
     とナリコは続ける。
    「『ゲイと暮らす』なんて変な男っ気、ふられたての今の私にはぴったりじゃない?それがいいリセットボタンになりそうなんだよねー、なんとなくだけど。もうしばらくは男を作る気もないしね」

     そして初顔合わせの日、ナリコの指定したカフェにやってきたのが、小学校教諭をしているという市川と、その彼氏の、某有名セレクトショップに勤めているという夏目だった(夏目に会ったことがない沙耶は、その場に激しく参加したがったがどうしても仕事が休めず、とても悔しがっていた)。
     ファッションモデルになれそうなほどの長身の持ち主でありながら、(ツキノワグマが丸太を運んでいるイラストがプリントされている)変なTシャツにお気に入りブランドのジャージを羽織り、デニムパンツという出で立ちで猫背気味に歩く、ひどい癖毛のどこか冴えない市川と、市川ほどではないにしてもかなりの長身に、顎のあたりまであるサラリとした緑の黒髪を揺らし、スクエア型の黒ブチ眼鏡から黒目がちの瞳を覗かせている、何となくかわいらしい雰囲気を持つ夏目とでは(夏目の容姿があまりにもナリコのタイプだったので思わずナリコは心の中で『あぁ、この人がゲイだなんてもったいない』と呟いてしまった)、どう考えたって気は合わなさそうなのにふたりは恋人同士だった。

     市川と夏目はお互いを下の名前で呼び合わず、
    「夏目」
    「市川さん」
     と、名字で呼び合っており、そのことも更にふたりを恋人同士らしく見せなくさせていた。
     ふたりの会話を聞いていても、何故か常に、市川より一つ年下の夏目が優位に立っていた。
    「もー、市川さんはだらしないなぁ」
     とか、
    「だから市川さんはダメなんだよ」
     などとしきりに夏目が市川をバカにし、それに対して、
    「なんだよ、夏目。お前、何考えてるのか全然わかんないよ」
     と、市川が支離滅裂になり出し、翻弄されていくのが常だった。
     そういった全く噛み合ってないようなふたりのやり取りも、このカップルを恋人同士らしく見せることを大いに邪魔していた。
     そんなふたりは部屋をシェアさせてくれたナリコに大変感謝しており、
    「家賃と光熱費は全額俺らが払うから」
     と有り難い申し出をしてくれた。
    「部屋が見つかった上に、敷金・礼金も浮いたからね」
     何もせずにその申し出を受けるのは流石に悪いので、家事の一切をナリコが引き受けている形だ。

    「イチさん」
     と、ナリコは市川を呼ぶ。
    「夏目ちゃん」
     と、ナリコは夏目を呼ぶ。
     恋人同士の本人たちでさえ下の名前で呼び合ってないのに、自分だけが下の名前で呼ぶのはなぁ…でも何か工夫したいなぁと思って考えた結果、こう呼んでいる。
     そう、イチさんと夏目ちゃん。

     で、今日だ。
     ナリコが『ロケットの呪縛』から逃れたくて気分転換をしようと一階に降り、共有スペースであるダイニングでウイスキーを物色していた時だ。
    「たっだいまー」
     無駄に高いテンションでドアを開け、市川が帰ってきた。
    「お、おかえりー」
     日の高いうちから飲酒をしようとしていた後ろめたさで、思わず声がうわずってしまう。
    「なに?ナリコ。もう晩酌?っていうか今は晩じゃないし。まだお日様、全然出てるよ」
    「いいの。ガソリン注入だから」
     開き直ったように言いながら、お気に入りのグラスに氷を入れる。
    「ふーん。夏目は?」
    「まだ帰ってない」
    「そう。で、ナリコの仕事は?終わった?」
     斜めに掛けていた鞄をおろして椅子に腰掛けながら市川が聞いてくる。
    「う…」
    「今回の依頼って扉ページなんでしょ?すごいじゃん。お酒に手が出るってことはもうほとんど描けたってこと?」
    「それが…」
     氷の上をなめらかに這うように琥珀の液体を注ぐ。そしてそれを少し舐めつつナリコは話した。
     今回の依頼はナリコの得意な人物画ではなく何故かロケットであること、そしてそれをどうにもうまく描けないこと、しかし提出期日は迫りつつあることなどを市川に訴える。
     それでちょっと気分転換をしようと思って階下に下りてきたのだと、昼間からの飲酒を弁解すべく、わざと困った顔をして見せることも忘れなかった。
    「そっかぁ、イラストレーターっつうのも大変なんだね。俺、絵のことはよくわかんないけど…。うーん。じゃあ」
    「何?手伝ってくれるの?」
     身を乗り出して聞いてみれば、
    「俺もナリコと一緒に飲もうっと。グラスちょうだい」
     と、市川。
    「は?」
     納得いかないながらもグラスを取り出し、それを市川に渡すナリコ。
    「一人で飲むよりいいじゃん。俺も、気分転換」
     そう言いながら冷凍室を探り、長い指で氷をつまんでグラスに落とす。そこにナリコがウイスキーを注いでやる。
    「気分転換?何の?イチさんも何かに行き詰まってんの?」
     何かに行き詰まってるようには全く見えないのんきそうな市川を見やれば、興味深そうにグラスに鼻を近づけている。ナリコと同じく下戸の市川は、まずは香りを楽しんでいるらしい。
    「うーん。行き詰まっては…ないかも」
    「やっぱりね。じゃあ気分転換いらないじゃん」
    「いいのっ。俺にも気分転換が必要なのっ。あ、じゃあこうする。『最近夏目の中に、俺に対する愛情があんまし感じられなくて寂しい』から、やけ酒」
    「『あんまし』でしょ?ちょっとでもあるならよくない?」
     舐める程度の予定が、思わずグビリと飲んでしまう。人と話しながら飲むと勢いが付いてしまって、一人で飲むよりもついつい量を飲んでしまうことがある。
    「よくないよー。ちょっと聞いて。夏目ったらさぁ…」
     そこから先はあまりよく聞いてなかった。ちゃんと聞いてもどうせイチさんの口から出てくるのなんて、愚痴じゃなくってノロケだし。
    「なんかさー、夏目ってさー、すぐ俺の顔見て笑うんだよー。ちゃんと真面目な顔してんのに『どうしたの、市川さん。そんなおもしろい顔して。俺のこと笑わせようと思ってんの?』とか、すーぐ意地悪言うんだよー」
    「ふーん」
     相づちは一応打つけどさ、そう言ってるイチさんが既に笑顔じゃない?っつうか、それって夏目ちゃんのテレ隠しじゃん。イチさんに見つめられて、テレてるだけじゃん。ってことは…どう考えてもコレってノロケ?あー、聞きたくない、聞きたくない。なんだよ、もー。全ッ然気分転換になんなかったー。はぁー。ったくー、もう飲んじゃえ。
     そんなことを思っているうちにナリコのグラスはどんどん空になっていった。

     で、次に気付くと今。
     午前三時になっていた。
     ナリコ自身の最後の理性がそうさせたのか、市川が運んでくれたのか、記憶がないながらもどうにか二階の自分のベッドで寝ていたようだ。そして、だいたいの酔っぱらいがそうであるようにナリコの喉はこれ以上ない位に渇いていた。
    「水…」
     はっきりしない頭のままゆっくり起き上がり、部屋の明かりを手探りで点ける。
    「うっ、まぶしい」
     いきなり開けた視界に目を細めつつ、水の入ったペットボトルの姿を求めて部屋の中を見渡せば、仕事机の上に見慣れない紙の束があるのが目に入る。
    「ん?何これ」
     部屋の明るさにようやく目が慣れ、一番上に置かれたメモをよく見ると、
    『こんなことぐらいしかできないけどゴメン。がんばれナリコ!かっこいい同居人・市川より』
     と書いてある。
    「ふっ。自分でかっこいいって…」
     イチさんらしいな。
     そしてメモと共に置かれていたのはロケットの画像をプリントアウトした用紙の束だった。あれから市川はインターネットで色々と画像を集めてくれていたらしい。
    「うわ、ほんとにかっこよかった。ちょっと感動しちゃったかも」
     でも『かっこいい同居人』なら断然夏目ちゃんの方だよなー、と苦笑いしつつ、市川がくれた書類をありがたく資料ケースにしまい、ペットボトルに手を伸ばしてからようやく気付く。
    「あ、カラだ…」
     ナリコの部屋があるこの二階スペースに冷蔵庫はない。
    「あー、めんどくさい。下に取りに行かなきゃ」
     仕方なく階段をのそのそと降りていく。
    「はぁ…っ…ぁあっ」
    「っくっ…あぁっ。はぁっ」
     しまった…。階段を降下するのをやめ、手すりをもったまましばし固まる。
    「しまった…」
     今度は小さく口に出してみてそのまま階段の中腹に腰をおろす。
    「はっ…くぅっ…あ、あぁっ…市川さっ…ぁあっ。…ぁんっ。…出るっ…あ…」
    「っ夏目っ…。俺も、あぁっっっ」
     どんなに『恋人同士に見えない』とは言っても彼らはやはり恋人同士だ。
     ナリコがかつて恋人同士であった時に恋人とそうしていたように、彼らは恋人同士なら当然すべき事をしているだけだ。
     全てを果てたようなふたりの荒い息づかいを聞きながら、でも、と、ナリコは思う。
     でもその行為の先に意味はあるの?私を抱いてくれたら、私は次の世代の人間を生み出すことが出来るのに、と。

    「せっかくふたりで一緒に住めるのに、私がいて、イヤじゃない?」
     そう夏目に聞いてみたことがある。
    「えぇっ?」
     突然そんな質問をされて驚いた夏目は、心の動揺を隠すかのように少しもずれていない眼鏡を人さし指で押し上げた。
    「なんでそんなこと聞くの?」
    「なんとなく」
     夏目はちょっと困った顔をしたが、すぐにふわっと女の子みたいに笑って言った。
    「部屋が全然見つかんない時に市川さんが言ったんだよ。『俺、お前と一緒に住めるなら、もう便所でもいいわ』って」
    「便所?」
    「そう、便所。で、俺は言ったんだよ。『便所なんて俺はヤだよ。そんな物件、お前一人で住んでくれ』って」
     それを聞いて、思わずナリコは笑ってしまう。
     不服そうな市川の顔と、口の左端だけを上げてニヤニヤしている夏目の顔が目に浮かぶようだ。
     きっとその時の市川はいつものように、
    「もう。夏目はほんと冷たいんだから」
     とでも言って拗ねたに違いない。
    「潔癖性の市川さんが『便所でもいい』っつうくらい、それぐらい俺らの部屋探しは切羽詰まってた。だからナリコが一緒に住んでもいいって言ってくれてほんとに嬉しかったんだよ。そんなナリコを崇めることはあったとしてもさ、イヤだなーなんて思うわけがないでしょ」
     願わくはふたりっきりで暮らしたかっただろうに、本心でなくとも、そう言ってくれる夏目ちゃんは本当に優しくていいなぁ、と、ナリコは思っていた。
     が、同時に、どうしても一緒に住みたいって、私もそんな風に思われたいなぁと、夏目のことを羨ましくも思っていた。

     普段、市川の前だと冷静で、冷めたような目で恋人をあしらっている夏目だったが、ナリコには気を許してしまうらしく、食後に食器をふたりで洗いながらなど、よく市川との思い出話をしてくれた。
    「ドッグカフェってさ、あるじゃん?そうそう、犬がいっぱいいて出迎えてくれるやつ。一緒に座ってコーヒー飲んだり出来てさ。あれに市川さんと行ったことがあるんだけど。犬がさ、俺の膝にばっか乗ってくんだよね。市川さんにはさ、全ッ然なつかないで。そしたらさ、市川さん、『もうっ。つまんないっ』っつってさ、急に立ち上がるから、あれ?帰んのかな?と思ったらさ、違うんだよね。『ワンワンッ』とか言いながら俺の膝に乗ってこようとすんだよ。先に乗ってた犬押しのけてさ。そんなの意味分かんないし、だいたい市川さんが『わんわん』っつったって、全然かわいくないっつうの」
    「俺さ、スゲー酒飲むじゃん?もうそんなの毎晩なんだけど。でさ、いつも通り酒飲もうとしたらさ、市川さんがスゲー止めてくんの。『そんなに飲むのは身体に毒だから』っつって。でもさ、そんなんで飲むのやめる訳ないじゃん?じゃあさ、いきなり俺の手からグラス取り上げてさ、市川さん、飲めないくせに全部飲んじゃったんだよ。かなりのハイスピードで。『何すんだよ』っつったらさ、『これれ、もう夏目は飲めないれしょ?』って。ロレツ回ってないし。だいたいそんなことしたって、また注ぎ足せば飲めるっつうの」
     夏目にノロケる気はさらさらないのだろうが、いつも彼が話すエピソードには市川の、夏目への愛情がひしひしと感じられ、その時の市川を想像する度にナリコが思うのはやはり『私もそんな風に想われたいなぁ』だった。
     夏目は気が付いていないかもしれないが、市川はよく夏目を見ている。
     夏目がテレビを見ていたり、ドライヤーで髪を乾かしていたりなど、夏目が市川を見ていない瞬間を縫うように、そっと遠慮がちに自分の恋人のことを愛しそうな目で見ているのだ。
     そして、そんな夏目への熱のこもった市川の眼差しを見るのがナリコはとても好きだった。
     よくテレビなどでスポーツの実況アナウンサーが、
    「いい顔してますね」
     なんて、選手のことを言うのを胡散臭く感じていたナリコだったが遂に、
    「イチさん、いい顔してるな」
     なんて思うようになってしまった。

     勢いに任せて始まった三人暮らしだったが、時を経るごとにナリコはこのゲイのカップルを愛おしく思うようになっていった。
     ふたりに愛しさを覚え始めた頃、ナリコは、ナリコ自身からふたりに向ける愛情のベクトルが違うことに気付き始めていた。
    『夏目ちゃんへの好きの気持ちは沙耶ちゃんへの気持ちと同じ種類の気がする。でも…』
     夏目の話す、市川に関する思い出話を聞くと、最初はただ単に、
    「仲いいなぁ」
     と、だけ思っていたのがいつの間にか、
    「私もそんな風にイチさんに想われたいなぁ」
     に、変わっていた。
     ナリコは、
    「もうしばらくは男を作る気もないしね」
     と、豪語してふたりと暮らし始めておきながら、密かに市川に恋をしてしまっていた。
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      「それってスッゴク不毛だよね」
       沙耶は、返事に窮して「うっ」と、言ったきり黙ってしまったナリコにチラリと一瞥をくれながらそう言った。
       そしてグラスに残っていたライムチューハイをぐっと飲み干し、
      「すいませーん!生中一つお願いします!」
       と、店員に叫んだ後に続けた。
      「男作る気ないんじゃなかったっけ?」
       そうそう沙耶ちゃん、よく覚えてらっしゃる。
      「男…作る気はないよ?っつうか、イチさんには夏目ちゃんが…」
      「最初っから分かってたよねぇ。なのに好きになったんだ?」
      「…はい…」
      「あーあ…」
      「私、別にイチさんとどうとか考えてないし」
      「ふーん。なら、ますます不毛だね」
      「それは…知ってる」
      「なのに何で好きになるの?」
       沙耶にはここが分からない。最初から叶わない恋と知りつつ、なんでナリコの中で恋が始まってしまったのかが分からない。
      「恋ってそういうものじゃん?」
       自分でも「まさかゲイの男に恋するなんて本気?」なので上手く説明ができない。だからこんなありきたりなことを言ってしまう。
      「それが恋だというものだから」
      「もー、そんなひと言で片づけないでよー」
       そりゃそうだ、とナリコ自身でも思う。
      「でもさー、あのさー、ナリコも知ってると思うけどさー」
      「え?」
       どんな言葉が飛び出すのか、思わず身構えてしまう。不毛な恋をしている私にこれ以上、ショックなニュースはやめて欲しい。
       そしてもったいつけるように真剣な眼差しで沙耶が言った。
      「市川くんって…」
      「うん」
      「ゲイだよ?」
      「はぁっ?」
       そして沙耶は、一人でケタケタ笑い出す。
      「フ・モ・ウ!フ・モ・ウ!」
      「沙耶ちゃん、うるさーいっ」
      「あらー、ナリコ。市川くんがゲイってこと、知ってたの?」
       沙耶の高笑いが店に響く。
      「沙耶ちゃんのバカ」
       そう言って怒るナリコに、ごめんごめんと全く心を込めずに笑いながら沙耶は謝った。
       もう、ほんとからかいすぎだよ。恋する女はなかなかデリケートなんだから。
      「まー、どっちにしろ不毛なんだけどさ、絶対にナリコは市川くんより、その彼氏の夏目くんの方が好みなんだと思ってた。眼鏡男子だし。あんた好きでしょ?眼鏡かけてる男」
       ナリコは激しい眼鏡属性だった。
      「私もそう思ってた。夏目ちゃんじゃなくてイチさん、ってのは、それは自分でも意外だった」
       外見の好みを通り越してまで好きになるゲイって、自分の中ではよっぽどの存在なんだと思う。
      「ふーん。っていうかー」
       キュウリの浅漬けに箸をのばしながら沙耶は続ける。
      「市川くんさぁ、あの人。友達の私が言うのもアレだけどさぁ、まず、その夏目くんとやらとも釣り合ってない気がするんだけど?」
      「はぁ…」
      「一体全体ナリコは市川くんの何がいいわけ?」
       ナリコは返答に困ったときの癖で、マドラーでグルグルと意味なくウーロンハイをかき混ぜながら答えた。
      「うーん。誰かを好きになるのに理由なんてないとは思うんだけど、敢えて言うと…」
      「敢えて言うと?」
       沙耶ちゃん目が据わってます。
      「眼差しが…スゴくいいんです」
       沙耶の変な迫力に押されて何故か敬語を使ってしまいながらナリコは答えた。
       そして「へへ」と笑って照れ隠しに、溶けた氷でだいぶ薄まってしまったウーロンハイをぐっと一気に飲み干して言葉を続けた。
       沙耶が、そんな答えにあっけにとられて何も言ってくれなかったからだ。
      「夏目ちゃんをね、見てる目がスゴくね、なんていうかね、いいんです」
       勝手にひとりで吹っ切れて、急に饒舌になりだしたナリコに沙耶は、
      「はぁ」
       と気の抜けたような返事をして、
      「あー、そう。でも」
       と、更に質問をしてみる。
      「それがなんで市川くんがゲイってことをも超越して好きになるのか分かんない。しかもそれって、『夏目くんのことを好きな市川くんが好き』ってことだよね?それが大前提で好きになったってことだよね?」
      「う…うん…」
      「じゃあ市川くんがナリコを見つめだしたらどうなるの?好きじゃなくなるの?」
      「それは…ない…と思うけど…どうなのかなぁ?」
      「あー、ナリコの気持ちが分からない」
       店員が運んできた生中を受け取り、口をつけながら尚も「分からない」を繰り返す沙耶。
      「なんで?なんで?」
       そうしつこく聞いてしまう。
       なんで?なんでか分からない。
       最初は大人しく、沙耶の「なんで?」を黙って聞いていたナリコだったが、急にダンッとカラになったジョッキをテーブルに荒々しく置くと身を前に乗り出した。
      「『なんで?なんで?』『分からない。分からない』って、そりゃ沙耶ちゃんに分かるワケがないじゃんっ。だって、当の本人の私もなんでこんなことになったのか、よく分かってないんだもんっ」
      「えー?それって一体何の逆ギレ?」
       相変わらず訝しげな目を向けてくる沙耶には構わず、
      「私にも生中くださいっ」
       店員に向かって叫び、更に反論する。
      「でも、好きになっちゃったんだもんっ。私、『夏目ちゃんを好きなイチさん』、を好きになっちゃったんだもんっ」
       急に身を乗り出してきたナリコに一瞬ひるんだものの、やっぱり沙耶はこう言わずにいられなかった。
      「うっわー…。益々不毛」
      「不毛。そうだよ、ほんっとに不毛。ザッツ不毛…」
       なんの勢いにのっていたのか分からなくなったナリコは急に萎えて肩を落とした。
      「不毛…だよねー…。とほほだよ」
       そんなナリコを励まそうと沙耶が含みのある微笑みを見せる。
      「でも、市川くんのことを好きなかぎり、前に言ってた『しばらく男は作らない』は実行できるんだね。すごいねー。ナリコって、なかなかの有言実行タイプだねー」
      「それって、褒めてんのかバカにしてんのか分かんない…」
       私がこんなんなっちゃうキッカケを作ったのは沙耶ちゃんだよ、というセリフは飲み込んでおいた。不毛でもあのふたりに、この恋に出会えたことに感謝しているから。
       沙耶の言う通り、ゲイの男に恋をしたって不毛なのは百も承知だ。でもナリコは恋をした。
       そして、
      「もうそれでいい」
       とも思っていた。
       ナリコが好きなのは『夏目を好きな市川』だ。このふたりと暮らしていれば、夏目を思う市川に恋をしていられる。今はそれでいっか、とも思う。
       いっかもなにも、もうどっちにしろ始まっちゃったし。
       そんでどっちにしろ、もう止まんないし。
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        「市川さん、今からドライブに行かない?」
         夏目の提案はいつも唐突だ。
         夕食後、紅茶をすする市川の横で、同じく紅茶カップを手にのんびりテレビを見ていた夏目が急にそんなことを言いだした。
        「え?行かないよ」
         夕食後には自分でブレンドした紅茶を飲むのが市川の密かな楽しみだった。
         いつもは寝るまでだらだらとビールを飲んでいる夏目も、今日は珍しく紅茶をセレクトしていた。
        封を切ったばかりの高級茶葉が放つ濃厚な甘い香りに、酒飲みの夏目もさすがに興味が湧いたらしい。
         市川は、飲みかけの紅茶をテーブルに置きながら、
        「だって俺、明日も学校があるもん。小学校ってホントに始業時間が早いんだよねー」
         と、続けた。
        「なんで?行こうよ」
        「なんでって、今答えたじゃん。『明日も朝早いから』って、それ理由にならない?」
        「ならない」
        「…」
        「そろそろお風呂にお湯入れてもいい?」
         二階で仕事をしていたナリコが軽快に階段を下りてきてふたりに尋ねる。
        「イチさん、この紅茶、すっごくおいしかったよ、ごちそうさま。また淹れてね」
        「うん、いいよ」
         おいしかったーともう一度言い、流しにカップを置くナリコに、
        「ナリコ。今からさ、ドライブに行かない?」
         首だけを後ろに向けながら夏目が聞いた。
        「ダメだよ、夏目。ナリコは今、仕事中でしょ?無理だよ、ね?」
         市川が同意を求めるように言ってみるが、
        「いいよ。行こう」
         簡単にその期待を裏切り、ナリコはあっさり応えた。
        「えぇ?あんなにも仕事、行き詰まってたじゃん」
         納得いかない市川が驚いたように聞くとナリコは、
        「何言ってんの、イチさん。イチさんの集めてくれた資料のお陰でたった今、お仕事終わりましたー。どうもありがとう。後は入稿するだけだよー」
         ふたりにむけてダブルピースをしてみせた。
        「マジで?やったね。んじゃ、出掛ける用意して。俺、駐車場から車回してくるからさ」
         車のキーを片手に、市川の横から立ち上がろうとする夏目。
        「オッケー」
         ジャケットを羽織り、そのポケットに財布と携帯電話を突っ込んで玄関先に向かおうとするナリコ。
         そんなふたりを、
        「ちょ、ちょっと待ってよ」
         と市川が制した。
        「何だよ。市川さんは明日も早いんでしょ?」
        「そうだけど、でもやっぱり俺も行こっかな。俺がいた方がやっぱ盛り上がるでしょ」
         テレ隠しにそんなことを言ってみるが、
        「イチさん、無理しなくていいよ」
        「そうだよ市川さん。無理すんなよ」
         なんてふたりに本気で止められてしまう。
        「違うよ、無理してないよっ。なんだよ、俺ばっかり仲間はずれにすんなよっ。ハミーゴにすんなよー、もうっ」
         必死で両手をバタバタと動かし、抗議する姿が可笑しい。
         そんな市川を見て夏目はフン、と鼻を鳴らし、いつものように冷たく言い放つ。
        「何それ?『ハミーゴ』って何よ?市川さん、それ絶対に学校で、特に生徒の前で言わない方がいいよ。バカにされる」
        「ちょっとナリコ、聞いた?ね、夏目って俺に冷たいんだよ」
         あぁ、またノロケだ。
        「知らないよ、そんなの。夏目ちゃん、行こ」
        「うん」
        「えーっ。ちょっと待ってよっ」
         ふたりの後を…っていうより夏目ちゃんの後を追うようにイチさんがバタバタ追っかけてくる。
         結局またふたりがこうやって、分かりにくい形でイチャついてんのをみせられちゃったなぁ…。
         でも、ま、いっか。私はそんなイチさんに恋してんだから。
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            結局、ドライブなんて言っても行くあてなんてなくて、夏目の、
          「俺、のど渇いたわ」
           の一言でファミレスに来た三人だ。
           最初は、
          「えー、何?結局ファミレス?俺、明日、朝早いんだけど?」
           なんてぶーぶー文句を言ってた市川だったが、いざ案内された席に着いていちごフェアの特別メニューを見た途端、
          「うわー、全部いちごだよ。どれにしよう」
           と、身をくねらして楽しそうに悩みだした。
          「ねぇ夏目。夏目はどのいちごにすんの?」
           目を輝かしたまま市川が夏目に聞いてくる。
          「は?なんで俺もいちご頼むことになってんのよ?俺、甘いものは苦手なんだよ。アメリカンでいいよ」
          「えー?『のど渇いた』ってゆってた人が普通、アメリカン頼む?」
           相変わらず夏目は冷たい。
          と、いうよりも相当マイペースなんだろう。
          「夏目はなんでいっつもそんな意地悪言うのー?もー。じゃあナリコは?ナリコはいちご、食べるでしょ」
          「ごめんイチさん、私も甘いものはちょっと…。もう夜遅いし、太るのが怖いからカフェオレにするよ」
          「えー?何このふたり?超ノリ悪いんですけど?」
          またこの構図。もう三人の間ではお決まりの一対二の構図。
          夏目ちゃんとは好きな人がカブってるだけあって、こういうとこでも変に気が合っちゃうのかもしれない。
           市川対市川を愛しているふたり…。まぁ、夏目と市川は、愛し合っているけれど…。
           愛し合って…あ、と、ナリコは気付く。
           ふたりと暮らすようになってから、まだ聞いてないことがあることを。
          「あのさ」
           ナリコは、自分の正面に並んで座るふたりに聞いてみる。
          「ん?なに?」
           夏目が眼鏡の奥から黒目がちの目をこちらに向けてきた。
          「ふたりのなれそめってなに?」
          「えぇ??」
           驚いた市川が、いちごフェアの特別メニューから顔を上げて変な高い声を上げる。
          「市川さん…うっさいなー…」
           もう、そんなこと位で驚くなよ、と言いながら夏目はナリコに向き合った。
           依然として市川は顔を真っ赤にして「えぇ、でも…」とかなんとか言ってる。
          「そりゃ気になるよね。なんで、俺みたいな今が旬って感じのイイ男と、市川さんみたいな変な男が付き合ってんのか?ってさ」
          「変な男とはなんだよー」
           照れて赤くなった顔に、ムキになった赤みがさして、もう市川は耳まで真っ赤だ。今日市川が着ている(イチゴがたくさん乗ったホールケーキのイラストが中央にデカデカと入り、その下には「HAPPY BIRTHDAY」というロゴが入っている)変なTシャツは結構濃いめのピンクだが、もうあまり顔との色の差がない。
          「いや、私はただ単に、『ゲイの人たちって、どうやってお付き合いを始めるんだろう?』と、思いまして…はい」
          でもまぁ、そん中からこのふたりってのはなかなかナイかも、とも付け加えた。
          「あぁっ。ナリコまでそんなこと言う?『ナイ』って何だよ、『ナイ』って…」
           まだわあわあ言っている市川をよそに、夏目が話し出す。
          「市川さんのナンパだよ」
           と。
          「へぇっ?ナンパ?」
           イチさんにそんな度胸があったんだー、と、ナリコ。
          「夏目っ。ナンパって言い方やめてよ。そんな言い方すると、俺がスゲー軽いヤツみたいに聞こえるじゃん」
          「でもあれはナンパだよ」
          「ちーがーうっ」
           ナリコを前に揉め出すふたり。
          「そんな言い方すんなよっ」
          「じゃあ他になんて言えばいいんだよ?」
          「でもあれは夏目がー」
          「違う、市川さんが」
           お互い、キッカケを作ったのは相手の方だと言いたいらしい。
          「どういうこと?」
           ナリコは聞いてみたが、
          「夏目が誘ったんだよ」
          「市川さんが襲ったんだよ」
           まだそんなことを言い合っていてラチが明かない。
           なるべく平等にふたりの言い分を要約すると、こうだ。

           ある晴れた春の日の夕方。
           仕事を終えた市川が、桜が散りゆくのを眺めながら帰る途中。もうすぐ家に着く、というところで道ばたにかがみ込む痩身の男を見かけた。
           市川の勤める小学校から、市川が当時住んでいたアパートまでは途中、用水路沿いをゆく。彼の知る「用水路」というものが大抵そうであるように、その用水路沿いにもたくさんの桜の木が植えられており、市川は毎年この季節になると自分の通勤路が華やぐのを楽しみにしていた。
           そんな日本らしい春の季節感があふれるこの道に、市川曰く「相当に今風」の男がじっとかがみ込んでいる光景は、どこか市川に違和感を与えた。
           それでも最初は「この人、何か落とし物でもしたのかな?」と、思ったぐらいで特に気にも留めず、その横を通り過ぎようとした市川だったが、何気なく見た男の様子がおかしいことに気が付いた。
          「え?」
           一目で具合が悪いと分かるほどに男の顔は青ざめており、その上たらりたらりと冷や汗までかいている。桜の花びらが長めの髪に絡まるのを払いのけもせずに目をつむったまま肩で息をし、じっとかがみ込んでいる。
           それが夏目だった。
           その日の夏目は、前日の深酒が抜けないままで日が高いうちから飲みに出掛け、そしてまた飲み過ぎていた。結果、帰り道で急に気分が悪くなり、めまいを起こしてかがみこんでしまったのだった。
           そんなことは夏目の日常には時々起こりうることだったが、苦しそうにしている人を放っておけないのは市川が真面目な小学校教諭ということも関係していたのだろう。
          「あの…」
           気が付くと声を掛けていた。
          「大丈夫ですか?」
           夏目に近寄り、顔をのぞき込む。
          「は…はい…」
           そう答えて市川を見上げた次の瞬間、夏目は嘔吐した。

          「市川さんの顔があまりにも気持ち悪かったから…」
          「夏目っ」
          「それで?」

           びっくりした市川は、吐き続ける夏目の背中を優しくさすってやり、持っていたペットボトルの水を与えて口をゆすがせた。そして「救急車、呼びますね」と提案した。
           が、ただ単に飲み過ぎただけだと分かっている夏目は涙目になりながら市川を見上げ、
          「ここで少し休んでいけば、良くなるんで…」
           と、その申し出を断った。
           そう言われても、目の前で嘔吐した人をそのまま放ってはおけない。
           考えるより先に市川は言っていた。
          「うち、すぐそこなんで、ちょっと休んでって下さい」
          「でも…そんなの悪いです…」
           遠慮して断る夏目の腕をとり、
          「いいから、とにかく行きましょう」
           市川は夏目を自室に連れ帰った。

          「ね?ナンパでしょ?」
          「だーかーらー、違うってばっ。俺はただ単に親切心から…」
          「じゃあなんであの後、俺らヤったの?」
          「えぇっ?」
          「夏目っ。ナリコが完全に引いちゃってるじゃんっ」
          「でもホントのことだろ」
          「そうなの?」
          「そうだよ。な?市川さん?」
          「…」
          「初めに俺のこと見た時、『かわいい』って思ったんでしょ?『涙で潤んだ目にやられた』って言ってたじゃない?」
          「…」
          「へー…」

           自室に夏目を連れ帰った市川は、かいがいしく夏目の看病をしてやった。
           自分の身体も支えきれずにふらつく夏目をベッドに座らせて眼鏡を外し、冷や汗で濡れてしまったシャツを脱がせて洗い立ての自分のTシャツを着せてやった。
           うんうん唸っている夏目の身体を横にして布団を優しくかけてやり、髪に絡まる桜の花びらを一枚一枚丹念にはずし、氷水で冷やしたタオルで顔を丁寧に拭いてやった。
           苦しそうな表情で眠る夏目を見守り、起きたときの為におかゆの用意までしていた。

          「今んところ、完全に市川さんがキッカケ作ってるよね?」
          「でも俺に抱きついてきたのはお前からだろ?」
          「なっ」
          「本当?夏目ちゃん?」

           市川のベッドで眠りながら、夏目は夢を見ていた。それは、ついこの間別れた彼女の夢。
           不倫だった。
           ふたりの未来に明るい光が射していないことは最初から分かっていたが、いざ彼女に、
          「旦那が転勤になって、私もついて行くことにしたの。不倫で遠恋は無理。だから、別れよ?」
           そう切り出された時は驚きと絶望のあまり、足もとがグラグラと揺れるのを感じた。
           そのショックから、ろくに食事もとらずに連日連夜、酒をあおり続けた結果が今のこの状態だった。
          「い…いやだ…。行かないで…」
           閉じた夏目の目から細く涙が流れる。
           朦朧とした意識の中で泣きながらうなされる夏目に対してどうすればいいか分からず、おろおろしながらも市川は答えた。
          「だっ…大丈夫ですよ。ここにいますよ」
           少しためらったが、何かを求めて空を切る夏目の手を取る。
          「行かないで…」
           これは偶然だったが、市川愛用の香水はユニセックスのもので、夏目の別れた女と同じものを使っていた。
           シトラス系でありながら、どこか甘さを感じさせる不思議な香り。
           あぁ。この香り。俺のもとに帰ってきてくれたんだ。
          「え?あ、ちょっ」
           戸惑う市川をよそに夢うつつで夏目は市川を強く引き寄せた。バランスを崩した市川が一瞬夏目に覆い被さるような体制になり、
          「…んんっ」
           急に息が出来なくなった…と、市川が思った時にはもう、夏目が身体を翻して市川を組み敷き、そして市川に口づけていた。

          「ちょーっと。待ったっ」
          「へ?なに?」
          「別れた女って何?夏目ちゃんって、元はゲイじゃなかったの?」
          「違うよ」
          「えぇ?」
          「ちなみに俺もちがうよ。夏目のことは確かにかわいいって思っちゃったけど。そん時、彼女いたよ」
          「えええぇっ」

          「うそだろ…」
           空が白みだした頃に目を覚まし、自分の裸体と眠る市川の裸体がひとつベッドの中にあるのを認めた夏目は、絶望したように両手を顔に当て呟いた。
          「うそだろ…」
           もう一度呟き、涙で腫れた目をこすってから眼鏡をかける。ぼやけた視界のせいにしたかったけれど、クリアな視界で改めて見直したところで状況はなにも変わらない。
          「あぁー…」
           今まで、線の細いその外見の所為で男の痴漢に遭ったり、男から愛を告白されたり、というような経験は何度かあったもののそれに応えたことなんて一度もないし、もちろん男と寝たのなんて初めてだった。
           下腹部に、今まで経験したことのない類の違和感が、痛みが、ある。
          「ん…んん…」
           夏目が起きた気配に市川が目覚める。
          「ん…おはよ…ございま…す…」
          「…」
          「気分…どうですか…?」
          「…」
          「あの…」
          「気分…?」
           まだ寝ぼけているような市川を夏目が睨む。
          「良いわけないだろっ」
           そう怒鳴られてたじろぐ市川。一気に目が覚めた。
          「お前っ、最初っからそういうつもりで俺のこと部屋に連れ込んだのかよっ?」
          「ちが…俺はそんな…」
          「じゃあなんで?」
          「ええ?覚えてないの?最初にキスしてきたのはあなたの方ですよ」
          「俺?」
          「そう、あなたが『行かないで』って俺に抱きついてきて…」
           そう言われればそうかもしれない。
           昨日の感触が腕に蘇る。
           でも…なんで?なんで俺から抱きつくことに…?
           そこで夏目は気付く。
          「この香り…」
          「え?香り?」
          「そう。この香り、シトラスの。これ、あんたの香水?」
          「え?」
          「ちょっと」
           いきなり手首を掴み、そこに鼻を寄せる夏目に戸惑う市川。
          「あ…あの…」
          「やっぱり…。あいつのと同じ…」
           夏目の眉間が歪む。
          「こんなややこしい香水、使うなよっ」
          「えー。何それ?香水選ぶ権利ぐらい俺にもあるでしょ?」

          「ふたりって、最初っからそんな感じだったんだ」
           イチゴパフェをつつく夏目と、アメリカンをすする市川を見ながらナリコは言った。
           甘いのは要らないと言っておきながら、市川のイチゴパフェが運ばれてきた途端「あ、俺やっぱそれ食べたい。市川さん、俺のと交換してよ」と、夏目が市川のパフェを奪ったのだ。
          「そう、夏目は最初っから勝手でわがままな男だったよ」
           夏目を見やると、パフェに夢中だというテイを装って聞いていない振りなんてしている。
           そんなの絶対無理なのに。
          「それでその後、どうやってふたりは付き合うことになったの?イチさんの彼女は?」
          「もうその彼女とは終わりそうな感じだったんだ。早朝から夕方まで小学校教師やってる俺と、夕方から早朝までバーで働くその子とでは生活リズムが違い過ぎたんだよね。で、やっぱり別れちゃって…」
          「そっか…」

           その日は、
          「どうも、お世話になりました」
           と、夏目はあっさり帰って行った。
          「服はお返ししに来ます」
           屈んで靴ひもを結びながらの姿勢のままで市川にそう告げる。
          「え…いや、別に…いいですよ…。あ、でもやっぱり…返してもらおうかな…。あっ…でも…どうしようかな…」
           大きな手を額にあてていつまでもおどおどしている市川に、怪訝そうな眼差しを一瞬向けてから立ち上がり、夏目はもう一度言う。
          「服はお返ししに来ます」
          「あ…はい…そうですか…じゃあ…」
          「…」
          「あ、え…でも…やっぱりそんなの悪いし…」
           返しに来るっつってんじゃん。
           なんだこいつ。今まで見たこともないくらいの優柔不断さだ。だらしがない。
           いくら香水に騙されたからといって、なんで俺はこんな男に抱かれてしまったんだ?
           不快さで下を向いた夏目の目に、もじもじと動く市川の大きな足が映る。
           つっかけたサンダル。かかとが随分はみ出している。
          「お返ししに来ます」
           ふぅっと呆れたようなため息をひとつついて、
          『このやりとり、もう3回目』
           心の中でカウントした。
           お前を気遣って言ってるんじゃないっつうの。
          「だって」
           顔を上げ、今度は市川の目を見据えてハッキリ言う。
          「今洗ってもらってる俺の服も、返して貰わないといけないし」
           確かに市川の貸した服はどうでもいいような(目にモザイクが入った男ふたりが、パンツ一丁で殴り合いをしているイラストがプリントされている)変なTシャツだったが、夏目のは違った。
           最近買ったお気に入りのヴィヴィアンのシャツ。これは返して貰わないと。

          「あ、もしかしてそのシャツって今夏目ちゃんが着てる…」
           そうナリコに指摘されて夏目があわてて自分のシャツを見る。
           左胸にヴィヴィアンのオーヴの刺繍。
          「うわ…」
          「ほんとだっ。なーつーめーっ。思い出のシャツだぁ」
          「うっさいなー。このシャツ、家に帰ったらもう捨てるよ」
          「夏目…」

           数日後の夜。
           夏目は、借りたTシャツを洗濯して、あんなことになったのは不本意だったけれど、一応介抱してもらったお礼にと、ワインを持って市川の家を訪ねた。
           早く全部忘れたい。
           この数日間、ことあるごとに『酔いの向こう側にあったはずの記憶』が夏目の心をかすめていた。
           最初は戸惑っていたくせに結局応えた市川の舌の味、夏目の背中をはいずり回る大きな汗ばんだ手のひら、その大きな手のひらに身を預けた自分の体重、市川の髭のそり残しが左耳に当たって痛かったこと、「本当にするの?」もうとっくにやめる気なんかどこかに行ってしまっているのに一応はそう聞いてみる市川の上気した顔、「いいから、早く」早くってなにが?自分で言っておいてそんなことを考えていたこと、未知の世界に不安を覚えながらも急かしてしまった自分の欲望、「いっっ、あっ」「痛い…ですか?」「大丈夫…。大丈夫だから、あぁっ」「んっ」それに続く耐え切れてないお互いの声、「あ…すごい…か…わいい…」左肩にかかる市川の熱っぽい息、夏目の頬の涙を拭ってそのまま黒髪を梳いた市川の長い指、胸に滴ってくる市川の汗。下腹部に流れ込んできた市川の熱さ、そして全ての引き金となってしまった甘いシトラスの香り。
           疎ましいほど鮮明に映像が、音声が、においが夏目の脳裏をよぎる。
           けれど何より疎ましいのは、それらの記憶ひとつひとつを蘇らせる度に肌を粟立たせている自分自身。堪らず自慰行為に及んだことは絶対に自分だけの秘密だ。その時はいつもよりひどい自己嫌悪に苛まれた。
           早く全部終わらせて、『男に抱かれたこと』なんか忘れたい。
           忘れたい。忘れたい。忘れたい。
           その言葉だけを頭の中でリピートさせながら、もう二度と立つことはないであろうドアの前までたどり着いた。
           あの日はお互いの名前すら確認しなかったが、表札には、
          『市川』
           と、書いてある。
          「市川さん…か…」
           まぁ、今更名前を知ったところで、その名を呼ぶ機会もないだろうけど。だいたい、その機会があった時は名前を知らなかったし…。
           …『呼ぶ機会』って何が?一体俺は何を考えてんだ?
           そんな思いを巡らせた所為で少し指先が強ばったが、思い切って呼び鈴を鳴らす。
           ブーッっという間抜けな呼び出し音。
          「はーい」
           そしてその呼び出し音に呼応するかのような間延びしたのんきな声の後、ほどなくして市川が出てきた。
          「お、おぉ。ビックリした」
           ドアノブに置かれたその大きな手を目にした瞬間、また記憶が蘇りかけて肌がピリッと反応したが、
          「どうも」
           なんとかそれを落ち着かせ、無表情のまま夏目は会釈をした。
          「お借りしていたTシャツ、お返ししに来ました。どうもありがとうございました」
           努めて抑揚なくそう言い、持っていた紙袋を市川に押しつける。
          「俺のシャツは?」
          「あぁっ。ごめん。すぐ取って来る」
           市川は、アイロンをかけてハンガーにかけておいた夏目のシャツを慌てて取ってくると、それを丁寧に畳んでスターバックスの紙袋に入れ、名残惜しそうにおずおずと差し出した。
          「はい…これ…」
          「どうも。それじゃ」
           半ば奪うようにして紙袋を受け取る。
           お礼の言葉はもう言った。服は返したし、返してもらった。もうここに用はない。早く帰ろう。
          「あのっ」
           しかし、夏目がきびすを返して帰ろうとするのを市川が制した。
           びくっと夏目がその細い身体を強ばらせる。市川が思わずその腕をとってしまったから。
           そして市川はといえば、そんな自分自身に動揺していた。
          「あっ。すっ、すいません」
           しどろもどろになりながら慌てて手を離す。
           掴まれた腕の熱さにまた記憶が蘇りそうになり、夏目は顔が上気するのを感じたが、すぐにその動揺を払いのけ、この上ないほど不審そうな目を改めて市川に向けた。『前回ふたりの間に起きたことを話し出したら殺す』とでも言いかねない目を。
          「なにか?」
          「あの…。あ、あのっ…もう具合は…いいんですか?」
          「はい。お陰様で…」
           一刻も早くここから立ち去りたいと思っているのにこの男は一体何を言いたいんだろう?
          「あの…俺…」
           そして、市川が何かを言いかけたその時、市川の部屋の、つけっぱなしのテレビからカキーンという快音が響いた。
          「打ったーっ。大きい、大きい、これは入るか?入るか?入るか?入ったーっ。満塁ホームラーンッッ。サヨナラですっ。サヨナラ満塁ホームランですっ」
           野球中継の実況が、夏目がひいきにしている球団の劇的勝利を告げる。
          「え?あっ。うそ?やったっ。勝ったっ」
           一刻もここを早く立ち去りたいという今の状況も忘れて、思わず喜びを声に出してしまう夏目。
          「うわー。やったぁー」
           更に市川を軽く押しのけてまで目はテレビに釘付けになっている。
           そんな夏目を市川が目を丸くして見ていた。
          「え?そうなの?」
           と、さかんにその目をしばたかせながら。
          「あなたの出身って、もしかして…」
          「え?」
           このことが一気にふたりの距離を縮めた。
           ふたりが同郷だということが分かったのだ。
           そしてもちろん同じ球団のファンだ、ということも。
           自分の好きな球団ファンに悪い人間はいない、というのが夏目の最高の持論だった。
          「それならそうって早く言ってよ」
          「うん。そうだね…ごめん」
          「別に…謝らなくてもいいけど」
          「それもそうだね。ごめん」
          「あ、また謝ってるよ?」
          「あれ?あれ?ほんと?あれー?ごめん」
          「えー?」
           その日は夏目が持ってきたワインをふたりで空けた(と、言っても市川は下戸で、持参してきた夏目が結局はほとんど飲んでいたのだが)。
           周りに、自分がひいきにしている球団ファンがいないことで日ごろからつまらなさを感じていたふたりは、それからは可能な限り一緒にそのチームの野球中継を見るようになっていた。主には市川の部屋で、時には夏目の部屋で。そしてまた時にはふたりして球場まで出かけて行ったりもした。
           田舎から単身出てきて都心に暮らす夏目たちがひいきにしている球団のファンは、球場では極端に少数派だったが、夏目には市川が、市川には夏目がいると思うとそれだけで心強かった。
          「俺、上京してすぐ、ここの球場でビール売るバイトをしてたんだ」と、市川が言えば、
          「うそ?そうなの?俺、昔からよくここに遊びに来てたよ」と夏目が返す。
           じゃあとっくに会ってたかもしれないねー、なんて笑い合っては観戦を楽しむ。
           思う存分自分の好きな球団について話せる相手は本当に貴重で、それが口実で頻繁に会うようになったふたりだったが、一緒にいるうちに野球以外の話もたくさんするようになる。
           ふたりともが同時期に失恋していたことも、ふたりの距離を縮めるのを手伝った。
           全く異なる性質の職場で働いていることもお互いの興味をそそり、どれだけ一緒にいても話題に詰まることはなかった。
           しかし、最初の日に起きたことにはどちらもが触れないようにしていた。もちろんその間ふたりの間にそういった行為はない。
           セックスに関する話はふたり共が意識的に避けていたように思う。
           そして夏目は、いくらあんなことがあったとはいえ、人の好い市川に対して最初は態度が悪かったことを反省して後悔をしていた。
           夏目と市川は気の合う友達同士になった。

           そんな風に、ふたりが友情を育みつつあったある日。夏目が市川の部屋に来る予定の日。
           市川に急な残業が入り、会う約束をキャンセルしたことがある。秋の運動会で使う予定の玉入れの玉が足りなくて急遽、教員が手で縫うことになったのだ。
          『急に残業が入っちゃって今日は帰りがだいぶ遅くなりそう。だから今晩のナイターは別々に見よう。約束してたのにごめんね』
           市川は夏目にそのことを詫びるメールしておいた。
          『わかった』
           しばらくして、夏目からのそっけない返信メール。
          「…もうちょっと残念がってくれてもいいのに」
           今日の約束を反故にしたのは自分からのはずなのに、市川はそんなあっさりとした夏目の反応に少しの寂しさを感じていた。
           日がとうに落ちた頃、ようやく必要な分の玉を縫い上げた(「市川先生の玉、あまり丸くありませんね」とみんなに笑われてしまったが)。同僚たちに、飲みに行きましょうよと誘われたけれど、それを断り家路につく。もう、ナイターも終わりそう。
           夏目…すねてるかな。
           電話してもっかい謝った方がいいかな。
           でもな…あの夏目のことだし、なんとも思ってないか。
           下手に謝ったらまた「なにビビってんの?」なんて馬鹿にされるだけかもな。
           だけどな…やっぱり…一言謝っておこう。
           デニムパンツの後ろポケットから携帯電話をもたもたと取り出しつつアパートの階段を上っていく。夏目と一緒に買った球団マスコットのストラップがポケットに引っかかってうまく取り出せない。
          「あー、なんて言おう」
           ようやく取り出した携帯の、リダイヤルから夏目に電話をかける。
           あれ?呼び出し音が?
          『もしもし』
          「もっ、もしもしっ夏目?今日ごめん、あの…」
           そしてたどり着いた部屋の前。
           そこにはあるはずもない華奢な黒い影。
          「夏目っ」
           短く叫び、携帯を閉じながらあわてて夏目に駆け寄る。
           あれ?なんで?夏目?
          「あ、あぁ。市川さん…。おかえり」
           慌てた様子の市川に対してこちらはゆっくりと携帯を閉じ、もたれかかっていたドアから体勢を立て直しつつ疲れた目を返してくる。
          「『おかえり』じゃないよ。今日は遅くなるからナイターは別々に見ようってメールしたでしょ?」
          「そうなんだけど」
           少しもずれてなどいない眼鏡を中指の背で押し上げて「ははっ」と、自嘲したように笑いながら夏目が続ける。
          「最初は自分ちで一人で見てたんだけどさ、やっぱり…つまんないんだよね。市川さんと見ないとさ、つまんないんだよ」
          「夏目…」
          「もう、戻れないんだよ。ひとりで見てた頃にはさ。もう…戻れないんだよ」
           夏目は一気にそう言うと、急に大人しくなり、
          「…待ちくたびれちゃった」
           小声で言って、市川の肩に頭をあずけて小さく笑った。
           そんな夏目に市川は、ただただたじろぐだけで、抱き締めようかと迷った手も上げたり下げたりを繰り返すばかりで、その所在をなくしていた。
           あぁ、自分の心臓の音がうるさい。
          「市川さん…」
           ふいに名前を呼ばれたことにどきりとし、困った顔を一瞬作って、でも市川は聞く。
          「な、なに?」
           鼓動が早くなってんのがバレて、またバカにされるのかな。
          「市川さん…」
           もう一度名前を呼ばれた。
           鼓動の早さは収まりそうもないけれど、努めて落ち着いた調子で今度は優しく聞いてみる。
          「なに?」
           夏目の長い髪が首筋をくすぐって、なんだかうまく息が出来ない。
           俺、さっきまでどうやって息してたんだっけ?
          「あの…さ…」
          「ん?」
          「合鍵…ちょうだいよ」
           そう言って、はぁっと小さく息を吐いた夏目がこれ以上もないくらいに照れているのが、声から、髪から、吐息から、全身から伝わってくる。
           鼓動が早くなっていたのは俺だけじゃなかったんだ。
           市川は夏目を抱き締めた。
          「市川さん?」
          「…」
          「…」
          「夏目…」
          「…うん」
           夏目はじっと次の言葉を待った。
          「キスしていい?」
           前は夏目からだったけれど、今は自分からキスをしたい。
          「ねぇ、いい?」
          「バカ」
           夏目が笑う。
           やっぱりだめか。
          「そんなの…いちいち聞いてするもんじゃないでしょ?」
          「夏目…」
           そして、市川は夏目の肩を掴んで自分の正面に向き合わせた…。

          「言うなっ。夏目っ。その後のことは皆まで言うなっ」
           真っ赤になって慌てる市川の様子を、ニヤニヤしながら夏目が楽しんでいる。
          「と、いうことだよ、ナリコ」
          「へー…。ドラマチックだねぇ」
           話を全て聞き終える頃、ナリコが頼んだカフェオレはとっくに冷めていた。
           口をつけるのも忘れて聞き入ってしまった。
           でも、なんだか楽しい気持ちになっていたから、それでそんな冷めきったカフェオレも、やっぱりなんだかおいしく感じられたのだった。
           いいなぁ、夏目ちゃん。
           やっぱり夏目ちゃんが羨ましい。
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            「夏目くんに会ってみたい」
             ナリコと沙耶がいつも使うお気に入りのカフェで、抹茶オレをすすりながら沙耶が言った。
            「市川くんとは古い付き合いだったけどさ、まさかゲイとは知らなかったね。てっきり私のことが好きなんだと思ってたもん」
             美容師をしている沙耶のいる店に市川が行くようになり、意気投合したふたりは飲みに行くようになったらしい。
            「市川くん、いっつも私のこと指名してきてさ、そんで仲良くなって、周りのスタッフからも『市川さん、絶対沙耶さん狙いですよ』なんて言われてさ。そんなの完全に私のことが好きなんだって思うじゃん、普通」
             市川の前にもそういうことがあったりで割とモテてきた沙耶は、臆面もなくそう言ってのける。
            「ある日いつものように市川くんと遅くまで飲んでてさ、終電も逃しちゃって、そんで『市川くん、どうすんの、この後?』って聞いたのよ。なのにあいつ、『俺、帰ります』なんて言うじゃない?せっかく私が市川くんにチャンスあげたのに、なんで食いつかないの?って、そん時初めてこれは変だと思ったのよ。で、問いつめたら『彼氏がいる』なんていきなり言い出すんだからさー。ほんとビックリしちゃったわよ」
             その日の驚きを懐かしむようにふふふと沙耶が小さく笑う。
            「『つい最近ゲイになりました』なんてセリフ、私生まれて初めて聞いたわよ」
             もう後にも先にもそんなセリフを聞くことはないだろうけどね、と肩をすくめながら煙草に火をつける。
            「そんでその日沙耶ちゃんはどうしたの?」
             チョコレートパフェをつつきながらナリコが聞く。ここのパフェには小さくカットされたチョコブラウニーや甘酸っぱいラズベリーがたっぷり入っていて、その色合わせも綺麗で、ナリコはよく好んでオーダーした。
            「その日?私ったら、慣れない漫画喫茶で一晩過ごしたわよっ」
             またもあの日の事を思い出してそう怒りながら沙耶が言う。
            「もう、ドラゴンボールの話なら何でも聞いてよ」
             そう自嘲気味に笑いながら。
            「沙耶ちゃん。もしかしてイチさんのこと、好きだった?」
             からかい半分で、そう聞いてみる。
            「やーめーてーよーっ。ちょっと遊んでやろうと思った。そんだけよ。あんたと一緒にしないで」
             だいたい市川くんなんて、全ッ然タイプじゃないし、とも付け加える。
            「私ほどの女よりもいいっていう、その夏目くんとやらに会ってみたいのよ」
             そう言ってのける沙耶が羨ましい。
            「っつうことで、今からナリコんち行ってもいい?」
            「は?今から?」
            「そう今から」
             こうと決めたら即行動を取りたがる沙耶のこと。
             どうせダメって言っても来るんでしょ。
            「夏目ちゃん、まだ帰ってないかもよ」
            「いい、いい。待つから」
             ナリコの話を最後まで聞くこともなく、沙耶はもう伝票を手に立ち上がっている。
            「晩ご飯、何作ろうか?」
             そして、もう次の計画に移って平然と笑顔を向けてくる。
            「えー、じゃあ、取り敢えずスーパーに行こう…」
             結局ナリコもそうやって、沙耶のペースに巻かれるのが心地好かったりするのだから世話はない。
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               沙耶が夏目に会いに来たその日、ナリコが沙耶と台所で夕食の用意をしていると、市川より先に夏目が帰ってきた。
              「ただいま…」
               玄関に置かれた、ナリコのものではない華奢な靴を見て、誰かが来ていることは察したらしい。
              「ナリコ?」
               訝しげにそろりと台所を覗く夏目。
               カレーのいい匂いがしている。
              「おじゃましてますっ」
               夏目に気付いて、沙耶がエプロンで手を拭きながら出てきた。初対面の男には(それが例えゲイであっても)、とびっきりの笑顔で話しかける沙耶だ。
              「おかえり。夏目ちゃん」
               サラダに入れるトマトを洗いながらナリコが声を掛ける。
              「私の友達の沙耶ちゃん。沙耶ちゃん、夏目ちゃんです」
               そう紹介されると沙耶は夏目の手を取った。夏目の手は無骨なところがなく、女の子のそれようにさらりとしていた。
              「はじめまして」
               これは沙耶のキャラクターの得なところで、初対面から手を取るような人なつっこさを見せても特に違和感がなかった。
              「お噂はかねがね聞いてます。ナリコと、市川くんから」
              「あ、そっか。美容師の」
              「そうそう。市川くんはお客さんだったの」
              「うん、そうだってね。あなたがナリコを紹介してくれたお陰で俺たちここに住めてるんだよね。その節はどうもありがとうございました」
               夏目は深々と頭を下げた。
              「いえいえ、そんな、とんでもない。ホントのこと言うと私、最初は冗談のつもりでナリコに打診したのよ。そしたらあの子、あっさりノリで引き受けてくれたんだよねー」
              「あははは。らしいね。ナリコはホントにノリがいいから」
               え?なに?と、台所からナリコ。なんでもない。なんでもないよー、ナリコのこと、褒めてただけよー、と、沙耶。
              「あん時の市川くん、すっごく必死だったもん。夏目くんのことね、とっても素敵な人だって、色々聞いてるよ」
              「ふふ。ホントに?あ、でも俺も沙耶ちゃんのこと、ナリコと市川さんから色々聞いてるよ」
              「えー、なんか変なこと聞いてない?」
              「聞いてない。聞いてない」
               沙耶に負けない位のひとなつっこい笑顔で夏目が返す。
              「お酒にめっぽう強いってことくらいかな?『沙耶ちゃんはザルだ』ってナリコが言ってた」
              「ちょっと、ナリコーッ」
               台所に向かって沙耶が叫ぶ。
              「えー、さっきまで褒めらてたのに何で今度は怒られてんのー?」
              「あははは」
               そんなナリコたちのやりとりを微笑ましそうに見ている夏目は礼儀正しくてお洒落。今日は濃いブルーのスキニーデニムに少し光沢のある黒のジャケット。中に着たうす水色のストライプのシャツにはきちんとアイロンがかけられており、趣味のいい細身の紺のネクタイを少し崩して結んでいる。
              『夏目くんてほんとおしゃれな子…っていうか、顔小さっ。写真よりもいい感じじゃん。ゲイってことを考慮したとしてもかなりいい男…』
               沙耶は心の内で夏目を値踏みしていた。
              「夏目くん、今度ウチに髪切りに来なよ。負けたげる」
              「ほんと?じゃあ行こうかな」
              「そうしなよー。そんなサラサラの黒髪、久しく切ってないから、こっちからお願いして切らせて欲しいくらいよ」
              「マジで?いやー、助かるよ。そろそろ切りたくなってたんだよね」
              「じゃあ、是非」
               そう言ってふたりは、どんな髪型がいいかを話し合い出している。
              「少しアンシンメトリーなマッシュとか、似合いそう」
              「アンシメかー。勇気がいるなぁー」
               色々言い合いながらはしゃいでいる。
               ナリコは、最初、
              『周りの人を自分のペースに巻き込む同士のふたりが出会うとどうなるんだろう』
               と、少し心配していたが、
              『沙耶ちゃんと夏目ちゃんに関しては、はなんだか気が合いそうだな』
               今のやり取りを見てそう思い直し、安心した。
              「夏目ちゃん、ビールでしょ?先に飲み始めてもいいよ」
               冷蔵庫からよく冷えた缶ビールを取り出し、ナリコが言う。
              「いいの?悪いね」
              「もちろんいいよー。あ、沙耶ちゃん」
              「何?」
              「後はサラダ作るだけだから、沙耶ちゃんも夏目ちゃんと飲んでていいよ」
              「え…でも。悪くない?いいの?」
               そう言って、一旦遠慮して見せる沙耶に、
              「飲もうよ沙耶ちゃん。イケるクチでしょ?ナリコも市川さんもお酒弱くてあんまし飲めないからさ、俺らは今から飲み始めてちょうどだよ」
               と、夏目が誘って、それにナリコが続ける。
              「そうだよ。ふたりがどんなに飲んだって、私とイチさん、すぐに追いついちゃうんだから」
              「そお?じゃあお言葉に甘えて飲ませてもらおうかな」
               お酒が強い人と飲むといつもより飲んでしまうことがある。この日の夏目と沙耶はお互いがそうだったらしい。
               それから約一時間後、市川が帰宅する頃にはもうふたりはとっくに出来上がっていた。
              「ただいまー」
              「イチさーん」
               市川の帰宅を知り、困ったような笑顔でナリコが玄関まで駆けてきた。
              「どうしたのナリコ?」
              「沙耶ちゃんが来てるの」
              「あぁ、沙耶?そうなんだ」
               市川はいつもの調子でそうのんびり答える。
              「今日はカレー?スゲーいい匂いが家の外までしてるよ」
               なんていいながらゆっくり靴を脱いでいる。
              「イチさん、助けてよ」
               そんな市川にすがりながら、でも笑ったままでナリコが言う。
              「ふたりともすっかり出来上がっちゃってさ、今、みんなでトランプしてるんだけど、私が負けるとすっごく絡んでくるのよ。イチさんの、見つかっちゃったよ?」
              「えぇ?どういうこと?」
               不審そうな顔の市川をよそに、ダイニングからナリコを呼ぶ声する。
              「ナーリーコーっ。早く。負けたのはナリコなんだから。バツゲーム、ちゃんと最後までしなさいよ」
               と、沙耶。
              「いいから早く、さっきの続きを読めよ」
               続けて夏目の声。
              「もうイヤだってば。夏目ちゃんと沙耶ちゃんのバカッ」
               ナリコがそう叫んでもふたりは一層ケタケタと笑うだけだ。
               ナリコは、やっぱりニヤニヤしながらだけど、市川の陰に隠れるようにしてダイニングに戻る。
              「ただいまー」
               そろりと足を踏み入れる市川。
              「おじゃましてまーす」
               そこには、何度も一緒に飲んだことはあるけれど、今まで一度も見たことない程に顔を赤くし、にやけている沙耶がいた。
              「おう市川っ。おかえりー」
               夏目が市川を呼び捨てにし始めたら、それはかなり酔っている証拠だ。
              「イチさん見てアレ」
               そこには山積みにされたビールの空き缶。
              「えー…。カレーとビールってそんなに合わないよね?なのに、なにこの消費量…」
               市川も呆れてそう言う。
              「ナリコ。市川のことはもういいから、早くさっきの続きを読めよ」
               夏目が急かす。
              「もうイヤだってば」
               はにかみながらナリコが答える。
              「さっきの続きって何?それで『見つかっちゃった』って、俺の…何が…?」
               市川が当然そう尋ねると、
              「これこれ、これよ。それで、これをナリコに朗読させてたの」
              「あぁっ」
               沙耶がひらひらと見せてきたのは、市川が夏目に隠れてこっそり読んでいた官能小説だった。
              「こんなの読んで、お前。何興奮してんの?」
               呆れたように、夏目が冷たい視線を投げかける。
              「引くよね」
              「ちがうのっ。それは…」
               いつも以上にしどろもどろになる市川。
              「しかも美少女ものってさー。市川くんってロリコンだったんだ?」
               夏目に勝るとも劣らない冷たい調子で沙耶が言い放つ。
              「ロリコン小学校教師…サイアク」
              「ちょっ、ちがっ。やめてよっ」
               慌てて沙耶の手から本を奪うがもう遅い。
              「この平成のご時世に小説って…市川も相当アナログ人間だよね」
              「しかも隠し場所がベッドの下なんて…市川くん、中学生男子みたい」
               容赦なく市川をふたりが攻める。
              「ナリコー。夏目がふたりいるみたいだよ。冷たいよ。すっごく冷たいよ。この冷たさのせいで俺、凍え死んじゃうよー」
               そう言って最後の頼みの綱であるナリコにすがりつくが、
              「イチさん。今回ばっかりは私もかばえない」
               と、あっさり言われてしまう。
              「えー」
              「じゃあさー、俺に隠し事してたこととー、しかもそれがゲイものじゃなくて美少女ものだったことのバツとしてー、続きは市川に読んでもらおー」
               ロレツも危うく夏目が提案する。
              「あはははは。賛成っ」
               酔っぱらいふたりに「読め、読め」と、強要されて、
              「なんで俺が…」
               と、いいつつも、仕方なく市川は小説を読み出した。
              「えー…『あぁ、たくましい』えっと…『京子の締め付けに、俺はもう、爆発寸前だった…』」
              「うあーっ。むちゃくちゃキモーいっ」
               読ませておいて夏目と沙耶がそう叫ぶ。
              「ちょっとっ。俺、こんなの読んでキモがられてないで、先にご飯食べたいんだけど?」
               そう抗議する市川に、
              「ダメダメ。バツゲームが先でしょ?」
               と、夏目。
              「ご飯はそのチャプターが終わってから」
               と、沙耶。
              「えー…」
              「イチさん、がんばって」
               そして、ナリコが笑いながら励ます。
              「こんなバツゲームにがんばるも何もないでしょっ。なんだよ、ナリコまでっ」
               困りながらも楽しそうな市川を見ながら、ナリコはますます「この人を好きだ」と、思った。
               この人を。
               この人と、夏目ちゃんと沙耶ちゃんと。
               楽しくはしゃげる今が、本当に好きだと思った。
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                 携帯電話のアラームがバイブレーションで朝を告げる。
                 夏目の華奢な指がそれを探り、遂に止める。
                 そして電話を握ったままで、
                「うーん」
                 と、ひとつ伸びをする。
                 それでスッキリ目覚められた。
                「あー、起きたー」
                 朝の到来を自分自身で確認するように独り言を呟く。
                「今日は、卵焼きを丁寧に作ってみる日だ…」
                 布団の中でそんなことを計画しているとなぜだかわくわくしてくる。
                 朝ごはんを作るのは夏目の仕事だ。普段の家事の一切はナリコが引き受けていたが、朝ごはんは夏目が作りたがった。朝ごはんを丁寧に作るのが夏目にとって、何よりの癒しだったから。

                 隣で大口を開けてかーかー眠る市川を起こさないようにそっとベッドを抜け出す。ナリコもまだ起きてはこない。
                 ご飯はいいタイミングで炊きあがるように昨日の夜、タイマーをセットしておいた。 間もなく炊きあがる頃。お米の甘い匂いが広がりだしている。
                「やっぱりご飯は炊き立てでないとね」
                 ツヤを出すための炭も入れてある。
                 予定通りに炊きあがることを確認したら、小さめの鍋に水を張り火に掛けた。
                「今日の味噌汁の具は納豆にしようかな」
                 だし用の、荒く削られた鰹節を取り出しながらそう決める。
                 西の出身者に多く見られる傾向通りに、納豆の粘りがどうも好きになれない夏目ではあったが、それが緩和される味噌汁に関しては例外的に好きだと思えた。
                 次に、さわらの西京味噌漬けを三枚グリルに入れる。
                 あと、豆腐も食べたい。目が覚めるようにさっぱりと冷や奴で食べたい。
                「それならショウガもおろさなきゃな」
                 味噌汁、納豆、味噌漬け、豆腐。
                「しかし日本の食卓は、ほんっとに大豆だらけだな」
                 なんてことをぼんやり考えながら、味噌汁と豆腐に添える細ネギを刻んでゆく。
                 一通りの準備が出来たら、いよいよ今日のお楽しみ。卵焼きに取りかかる。
                「とろろ芋、とろろ芋は…っと。あった。これだな」
                 昨日ナリコに買っておいてと頼んでいたとろろ芋を冷蔵庫から取り出し、丹念におろしていく。おろすのは半分。後は小さめの短冊切りにした。
                「あー、指がかゆくなってきた」
                 慌てて手を洗い、ぬめりを取ったら、次は卵を三個取り出す。
                 その全てをボウルに割り入れ、菜箸で丁寧にといていく。
                 ここでいつもの卵焼きなら少し牛乳を入れるのだけれど、今日は和風でいきたいから敢えて入れないでおいた。
                 卵焼き用の四角いフライパンを熱し、ごま油を引く。熱せられたごま油から香ばしい香りが立てば、卵を入れる。
                 少したったところでとろろを乗せる。卵の半熟部分の黄色と、おろしたてのとろろの白のコントラストの美しさにしばし見とれていたいところだが今回は、カリッよりもフワッと仕上げたいから、短冊切りにした分を乗せたらもうどんどん巻いていく。
                 これをみっつ用意した。それぞれに大根おろしを少しずつ添えて。
                 次に暖かいだし汁に味噌を溶いていく。沸騰しないように気を付けて。
                「沸騰しちゃった味噌汁なんて興ざめだ」
                 小皿に盛った冷や奴にショウガとネギを乗せる。
                 あらかた完成した頃に炊飯ジャーが、炊きあがりを告げるメロディーを奏でた。
                 そこでナリコが起きてきた。
                「おはよー。夏目ちゃん」
                「おはよう、ナリコ」
                 やさしく湯気の立ち上がるつややかなご飯を茶碗によそいながら夏目が答える。
                「あー、すっごいいい匂いがしてるー」
                「今日は卵焼きに凝ってみました」
                「おー、スゴーイ」
                 そう言いながら夏目の作ったものをひとつひとつのぞき込んでいく。
                 それらが放つ、おいしそうな匂いに胃が目覚めるようだ。
                「ナリコも今食べる?」
                「うん。頂きます」
                「んじゃ、味噌汁お願い」
                「はーい」
                 手を洗って食器棚を探る。
                「イチさんの分は?」
                「市川さんはまだ寝てるからいいや」
                「あれ?学校は?」
                「開校記念日だとかで休みらしいよ」
                「へー、いいね」
                 開け放した台所の窓から、少し離れたところに幼稚園のスクールバスが止まっているのが見える。お母さんに見送られて、園児が元気よくつぎつぎと黄色いバスに乗り込んで行く。
                 ひよこの集まりみたいだね。
                 今は馬鹿みたいににデカい市川さんにも、あんな時代があっただなんて信じられない…。
                 はははっ。
                 ダイニングに次々と皿を運び込み、夏目と向かい合って席に着いた。
                「いただきます」
                「いただきます」
                 早速、夏目の今日の自信作、卵焼きに箸を入れる。
                「うわ」
                 思わず声が漏れた。とろりと溢れたとろろ芋に驚いたから。
                「すごーい…」
                「早く。早く食べてみてよ」
                 うながされるまま、早速口に運んでみる。
                「んっ。うわー。おいしー」
                「ほんと?良かった」
                 卵がふわふわなのはもちろん、とろろ芋の、すりおろした分と短冊切りにした分が歯ごたえに差を生んでいて、とても歯触りがいい。
                「やるなぁ、夏目ちゃん」
                「ふふ、そう?」
                「お味噌汁もやっぱ、鰹節からだしを取ってると違うね。私は細粒のん、使っちゃうし」
                「だしを取ってる時間がね、好きなんだ。時間の流れがゆっくりになる」
                 夏目ちゃんは穏やかだ。穏やかでマイペース。夏目ちゃんのまわりに流れている時間は、私のとは違う。
                 そしてナリコはその違いに巻かれるのが心地よかった。きっと市川もそうなんだろう。その心地よさをくれる夏目が好きなんだろう…と想像する。
                「ナリコってさ、いっつもほんと、おいしそうに食べてくれるよね?」
                「だってほんとにおいしいもん」
                「ははは。ナリコはかわいいな」
                 その言葉、まんまイチさんに言ってあげなよ、とナリコは思う。夏目ちゃんの作ったご飯を一番美味しそうに食べるのはあの人なんだよ。
                 夏目は、市川以外にはほんと優しい。
                 でも、あの冷たい感じが夏目ちゃんの真の愛情表現で、それをイチさんが受け止めてるんなら仕方がない。
                 そこには市川と夏目にしか分からない何かがあって、それにナリコは触れられない。
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                   朝ごはんを食べて程なく、夏目は仕事に向かった。
                   ナリコが玄関まで見送る。
                  「夏目ちゃん。今日も朝ごはん、スーパーおいしかったよ。ごちそうさま」
                  「いーえー」
                   コンバースの黒いハイカットに足をさし入れながら夏目がナリコを見上げる。オールフロントの長めの黒髪、クロブチ眼鏡の隙間から黒目がちの目がのぞく。
                  「あ、ナリコ。もし今日買い出しに行くんなら、ほうれん草買っておいてくれない?あとゴマね。すってないやつ。ゴマはすりたてが一番香ばしいからね」
                  「分かった。明日はおひたしでもすんの?」
                  「そうそう。お楽しみにね」
                   やったー、とナリコ。夏目ちゃんが作るおひたし、好きなんだよね。
                  「あ、あとそれと」
                   もう片方の靴を履きながら夏目が付け加える。
                  「箱ティッシュがなくなりそう。それもついでに買っといて」
                  「へ?もう?なんか、なくなんの早くない?」
                   そう何気なく聞いてみたが夏目は俯いて靴ひもを結びながらの姿勢のまま、
                  「俺、花粉症だからね。この時期は仕方がないんだよ。頼んだよ」
                   と、だけ言ってくる。
                   うーん、はい。と、ナリコは不信ながら承知した。
                   なんでそんなに減りが早いのよ。私の方が花粉症ヒドいんですけど。イチさんは全然花粉症とは無縁だし。
                  「じゃあ、セレブ用の、鼻にやさしいタイプでも買っといてあげるよ。いってらっしゃい」
                   ナリコがそう言うと夏目はいつものようにふわっと笑って、
                  「サンキュ。んじゃ、いってきます」
                   黒髪を春風に揺らしながら出掛けて行った。
                   まぁ、買いだしくらいいいけどさ。
                  「さて、今日はいい天気だし、先ずは洗濯でもしよう」
                  一階にある、市川と夏目の部屋を抜けた裏庭に洗濯機がおいてあるので、洗濯物があるときナリコはふたりの部屋を通らなければいけない。
                  「おじゃましまーす」
                   眠る市川を起こさないようにそっと部屋に入る。
                   若い男がふたりで暮らすシンプルな部屋。独特の匂い。
                   高身長の市川と夏目が眠るダブルベッドはかなり大きい。ナリコはこんな大きいベッドをふたりが引っ越してきた日に生まれて初めて見た。
                   とは言っても、高身長すぎる市川にとって、キングサイズのベッドでも大きすぎることはないようで、今日も案の定足の先がはみ出している。
                  「デッカイ足…」
                   ナリコにとっては、それすらも愛しいのだけれど。
                   その次に、その愛しい足下にある、ゴミ箱がふとナリコの視界に入った。
                   それは、昨日にはなかった、大量に捨てられたティッシュの山。
                   あぁ、そう。
                  「花粉症ねぇ…」
                   ぬぐってるのは鼻水だけじゃないってワケね。
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                     洗濯ものを干し終えて、カフェオレにハチミツを溶かして作ったハニーラテをポットに入れ、あらかじめお湯をくぐらせて温めておいたお気に入りのウォーホルのマグカップを持って、ナリコは二階に上がってきた。
                     今から仕事。
                     いつもは一人のこの家に、市川がいるのが不思議な感じ。
                     いつものように一人なら、なんの気兼ねもなく、好きなミュージックを好きな音量で聴いているけど、階下に眠る市川を起こしたくないので今日はヘッドフォンを使っている。
                     同じアルバムをエンドレスリピートで。
                     市川にも夏目にも呆れられるが、ナリコは何か気に入ったものがあるとそればかりになりがちだった。
                     麻婆春雨にハマった時は、週三で食卓に並べてしまっていた(市川も夏目も、その優しい性格からそれをとがめることは遂になかったが、内心ちょっとイヤだったろう、と、今は少し反省している)。ライブがあれば遠方まで駆けつける程大好きな、ナリコお気に入りのお笑い芸人のDVDが発売されると、二ヶ月間、毎朝見ていた(そして毎回ウケていた)。同じ映画を八回観に行ったこともある(その内五回は沙耶と行ったらしい)。十年以上前に買った本を未だに繰り返し読んでいる(「読み過ぎで表紙が外れた本を初めて見たよ、しかもたった一人の人間の手で…」と、市川と夏目はそれを手にとり、驚愕の目でナリコを見ていた)。
                     ナリコはハズレを引くのを嫌がった。その魅力を熟知していて必ず気持ちよくなれるもの、新しくなくても確実なものをナリコは好んだ。
                     そんな風にしつこいところがナリコの欠点であり、また同時に良い所でもあった。そしてナリコはそんな自分の性格が嫌いじゃなかった。
                     自分の性格を充分分かっているナリコはときどき考える。
                    「私のこのしつこい性格は」
                     一体…。
                    「いつまでイチさんのことを想うのだろう?」
                     と。
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                       ノってくると無意識の層が暴れ出す。
                       ヘッドフォンは階下で眠る市川を起こさない為の配慮であったのにも関わらず、ナリコは絵を描くときのいつものノリで、大声で歌を歌ってしまっていた(まぁ、なかなかに歌は上手かった)。
                       絵に入り込むと、それ以外の意識は本当に飛んでいきがちだった(せっかくのハニーラテも冷め切っていた)。
                       それで市川は起きてしまったし(「ナリコのライブだ…」と、市川は呟いた)、市川への配慮も忘れてしまっていたわけだから当然、背後に市川が立っていたのにも全くもって気付くわけはなく、だから急に市川が抱きついてきた時は、
                      「ぎゃああっ」
                       と、飛び上がりながら声をあげてしまった。
                      「うわあぁっ」
                       驚かそうとしていたにも関わらず、ナリコの悲鳴に逆に驚かされて思わず出てしまった市川の悲鳴に間を開けず、
                      「ガンッ」
                       と、鈍い音がした。
                      「ああっ。痛いっ」
                       顎を押さえて市川がうずくまる。
                       驚いてビクッと身体を反らしたナリコの頭が市川の顎にぶつかったのだ。
                       元々驚かすつもりだったからナリコが叫ぶ心づもりは出来ていたハズなのに市川も同時に叫んでしまっていた。しかも顎まで強打して。
                      「ちょっと、ナリコ、驚きすぎだよ。ビックリさせようと思ったこっちの方がビックリさせられるなんて、本末転倒もいいとこだよ」
                       いてぇー、と、顔をしかめて顎をさすりながら市川が怪訝そうに言う。
                       ヘッドフォンを外し、早鐘のように打つ心臓を手で押さえながらナリコが涙目で市川を見上げる。
                      「知らないよ、そんなの。大体、人を驚かそうとしたイチさんが悪いんじゃん」
                      「なにそれ。冷たいなー。最近ナリコまで夏目ばりに冷たくない?」
                       市川に恋をすると、みんな市川に冷たくなってしまうのはなぜだろう。
                      「ちょー、もう。何?イチさん」
                       そして、なんでこんな変な人を私は好きなんだろう?
                      「お願いがあるんだけど」
                       顎をさすりながらの間抜けな雰囲気だけど、市川にまっすぐに見据えられてそう言われ、ちょっとドキっとしてしまう。
                       それが例えゲイの男であっても、好きな男からのお願いに、期待しない女なんていない。
                      またこんなこと沙耶ちゃんに言ったら、
                      「不毛だ」
                       って呆れられるだろうけど。
                      「えー。やだ」
                       嬉しい気持ちとは裏腹に、そんな言葉がナリコの口をついて出る。
                      「まだ何も言ってないでしょっ」
                       ムキになる市川の姿が見たくって。
                      | sweetminami | sweetcitrous | 16:51 | - | - | - | - |